井上孝司の Defense Column
 〜 あまりにも無責任なサミット報道

沖縄サミットを契機に、また在沖米軍基地の廃止を主張する声が強まっている。というか、サミット報道が「基地廃止を求める沖縄市民の声」の代弁者と化している、という方が適切かもしれない。

確かに、沖縄に基地が集中しているのも事実なら、その基地に所属する軍人が引き起こす騒ぎが後を絶たないのも事実だ。これは、日米両政府に解決する責任がある。

ただ、基地の存在を肯定する声や、基地で働いている人の声がまったく出てこない点には、腑に落ちないものを感じる。そもそも、後先のことを考えずに「基地の撤去」だけを訴えるという報道のやり方でいいのだろうか?


過去の拙稿の内容ともダブるが、どうも日本では「平和運動≒反米運動」の傾向がある。

たとえば、ベトナム戦争のときに「ベ平連」なる団体ができたそうだが、その後、ソ聯がアフガニスタンに攻め込んでも、ロシアがチェチェンに攻め込んでも (しかも二度も!)、イラクがクウェートに攻め込んでも、「ア平連」とか「チェ平連」とか「ク平連」なんてものはできた試しがない。

先日、「人間の鎖」で嘉手納基地が取り囲まれたそうだが、ロシアがチェチェンに攻め込んだときに、誰かロシア大使館を「人間の鎖」で取り囲んだりしただろうか?

ユーゴ情勢にしても、NATO の空爆が始まった途端に扱いが大きくなり、空爆が終わったら扱いが小さくなってしまった。だが、そもそもの紛争の背景まで踏み込んで説明した報道が、いったいどれだけあっただろう?

まして、アフリカあたりの紛争になると、もうニュースのネタにすらならない。たとえば、ルワンダにおける大虐殺の背景事情を説明できる日本人が、いったいどれだけいるだろう?

しかも、全員がそうだとはいわないが、中には「自分たちと相容れない主張が表に出てくると阻止しようとする」なんていうインチキ平和主義者もいる。これだから不信感を持ってしまうのだ。


だいたい、アメリカが 100% 善人だとは思わないが、アメリカだけを悪者にするのもおかしな話だ。

最近、中国とロシアは手を組んで「NMD 反対」といっているが、これも表面的には「軍拡反対、平和祈願」のメッセージに見える。しかしながら、その真相はというと、NMD が実用化したら中国やロシアが保有する戦略核戦力が大幅に威力が減殺されて、それが国際政治の世界における両国の発言力と威信の低下につながるから反対、というところだろう。「敵の敵は味方」というのは、国際政治の定理である。

ロシアの場合、「かつては超大国の一翼を担っていたのに、ソ聯崩壊後は経済混乱で威信が傷つけられた」というプライドがあるし、中国にしても「四千年の歴史」に起因する、いわゆる「中華思想」から、自国の存在感を強めたいという願望が出てくるのだろう。

もっとも、これは両国政府がいかにして「世界政治における自国の発言力を確保するか」という点に腐心しているという証拠だから、そのこと自体を責めるのはおかしい。どの国も、できるだけ自国の発言力を大きくしておきたいと考えるのは当然のことで、アメリカが世界各地に軍のプレゼンスを維持したり、ミサイル防衛構想に血道を上げるのも、背景としては同じことだ。

日本にしても、国連の常任理事国入りを目指していろいろと画策しているのだから、他人のことはいえない。ちょいちょい出てくる「空母保有論」もそうだが、これも、「昔の『帝国』時代にできるだけ近付きたい」という願望の現われではなかろうか。もっとも、それはそれで、ひとつの主張ではある。


理想論はともかく、現実には「軍事力、特に核兵器を背景にした発言力」が、国際政治の場ではモノをいっている。経済面では惨憺たる状況にあるロシアの代表がサミットに呼ばれるのも、膨大な核兵器の存在が背景にあるからだ。

現実問題として、アメリカに沖縄の基地の撤去を求めるということは、すなわち「アメリカは、アジアから中東にかけてのプレゼンスを諦めろ」というに等しいのである。もし、反基地運動家、一部野党、ならびに反基地運動を報じるマスコミが「在沖米軍基地の撤去」という論陣を張るなら、それによって生じるであろう結果にも目を向けるべきだ。

アジア・中東においてアメリカのプレゼンスを消失させるということは、代わりに別の国がこれらの地域の覇権を握ることになる。それは日本なのか、それとも他のどこかの国なのか。もし日本が覇権を握ろうというなら、そのためにはどういう手段を考えているのか。もし日本以外の国が覇権を握るとすれば、それはどこを想定しているのか。それは日本という国の生存のために受け入れられる選択肢なのか。

こういったことまで考えた上で、基地の存在の是非に関して論陣を張っているのだろうか。どうも、そうは思えないのだ。単に、「基地の撤去という論調に乗っかった方が『市民の味方』として受け入れられやすい」という程度の認識なのではないかという感じがしてならない。

もうひとつ気になるのは、ニュースなどでしばしば「市民のいうことは正しい、政府のいうことは間違ってる」的な論調が目につくことだ。何事も、正しいかどうかはその主張の内容が決めるのであって、論者の立場が決めるものではないはずだ。


そもそも、この件に限ったことではないが、政治家も国民もマスコミ報道も、現場レベルの細かい事象にばかり目をとられすぎていないか。
いま、本当に問われているのは、

日本という国は、国際社会の中でどうあるべきなのか。国際社会に対してどうコミットしていくのか。これから、日本はどのような国であることを目指すのか。

といったことではないのか。

もし、「日本は軍事力に頼らず、経済力で発言力を確保する」というなら、それはそれで立派な主張である。ただし、それには具体策が伴わなければならない。概念だけで政治はできない。
経済力を確保するためには、原料を輸入したり製品を輸出するために、世界各国との安定した通商が必要だ。そうなると、通商ルートや、安定した通商相手国を多数確保しなければならない。その具体策はどうするのか。また、経済力の裏付けの一環である国家財政をいかにして立て直すのか。こういった具体策を示す義務がある。

あるいは、「軍事力も利用する」という、「普通の国」論もある。それならそれで、どのような軍事力を整備するのか、それによってどのように国際社会にコミットするのか、それは経済的に支え得る選択肢なのか、軍事力整備に伴って周辺諸国に警戒されるリスクはないのか、リスクがあるならそれにはどう対処するのか、といった点を示す義務がある。

極端な話、江戸時代のように「鎖国する」という選択肢だってある。しかし、それならそれで、1 億人以上の国民の生活を、いかにして確保するかを示さなければならない。ただ、食料自給率を大幅に引き上げ、一方でエネルギー消費を削減しないことには、これは取り得ない選択肢ではある。

このように、本来あるべき議論のあり方というのは、まず「日本をどのような国にしたいのか」というコンセプトがあって、それを基に、個々の具体的な政策にブレークダウンするというものであるはずだ。その中で初めて、日本の軍事力をどうするか、どこの国と同盟するか、在日米軍の存在をどうするのか、といった個別の政策に関する議論が出てくるのだ。

そういったことをまるで取り上げずに、「在日米軍の基地撤去」だけを主張したり、そういった声を、さも「天の声神の声」であるかのように報道するのは、まったくもって無責任である。これは、米軍基地だけでなく、原発報道についてもいえることだ。
アメリカが国際政治における発言力を維持し、しかも和平の仲介に乗り出したり軍事介入したりできるのも、「アメリカの考える世界の秩序とはこういうものである」というコンセプトが最初にあって、それに則って政策を進めているからなのだ。

もっとも、それが他の国にとって受け入れられるものであるかというのは、また別の問題だが。