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井上孝司の Defense Column
〜 「平和教育」を考える夏向きの話題だと思うので、今回は学校における「平和教育」について考えてみたい。そもそも、日本に限ったことではないが、学校における教育の内容、とりわけ社会科や歴史というのは、政治の介入が多い。
現に日本でも、「自慢史観」主義者が「歴史教科書の格付け」などといっているし、その一方では、「平和教育が必要だ」という主張をする向きもいる。私にいわせれば、「学校」という場を通して、子供を自分たちの主張で "洗脳" しようとしているという点において、どっちもどっちである。
「自慢史観」(いわゆる「自由主義史観」のことを指す) については過去の拙稿でも触れたので、今回は「平和教育」を問題にしたい。
「平和教育」というと、どういうわけか、ほとんどの場合は題材になるのは太平洋戦争だ。そして、「学童疎開」だの「空襲体験」だの「飢えの体験」だの「原爆」だのを持ち出して、「戦争はいけません、平和を守りましょう」といって締めるのがお約束だ。
しかし、何も日本の歴史における戦争というのは、太平洋戦争だけではない。第一次世界大戦にも日本は参戦しているし、日清・日露はいうに及ばず。それ以前にも、戦国時代からその前に至るまで、日本の歴史もご多分に漏れず、戦乱の話はたくさん出てくるのである。
にもかかわらず、太平洋戦争だけが特別扱いされ、太平洋戦争やその後の戦争だけが別格扱いの「悪役」に位置付けられているのは、どういうわけだろう。だいたい、私がいつも書いているように、「戦争はいけません」と念仏のように唱えているだけで平和がやってくるというのが、とんでもない勘違いだと思う。
人類の歴史が戦乱の歴史であるのはまぎれもない事実で、「やってはいけない」「やると悲惨なことになる」のが分かっていながら、どうして人間が戦乱から逃れることができていないのか、といったところまで追求してこそ、どうすれば戦乱が起こるのを阻止できるのかを考える素地ができるのではないか。それを、戦争に付随する一般市民レベルの話に矮小化してしまっているのが「平和教育」の現実だ。それは「平和教育」ではなくて、「戦災教育」である。
かと思えば、学校で「戦争の話なんて」といって忌避する教師が、「戦国時代」の話は、何の疑問もなく授業で教えている。「源平合戦」だろうが「大阪夏の陣」だろうが「太平洋戦争」だろうが、戦争行為に違いはあるまい。どうして太平洋戦争やその後の現代戦に関する話だけが、特別に忌避されるのか。
もし「戦争の話をすると、子供が興味を持ってしまって教育上よくない」というのなら、歴史の授業から、あらゆる戦争の話を取り払ってしまえばよろしい。もっとも、そうすると授業で取り上げる内容がずいぶんと少なくなって、歴史担当の教師は一年の半分くらいの間、失職することになるかもしれないが。
(いや、それよりも、話の筋がつながらなくなって、授業にならなくなる可能性の方が高そうだ)この辺の矛盾を見ていると、本質的には「戦争」ではなくて「負け戦に終わった太平洋戦争」が嫌いなだけなのであって、それが「負け戦」で日本をこてんぱんにぶちのめしたアメリカに対する反感につながり、最終的にはベトナム戦争や湾岸戦争におけるアメリカの軍事力行使に対する反感や、在日米軍に対する反対運動の扇動、といったことにつながっているのではないかと疑ってしまう。
もしこれが真実だとすれば、それは「平和教育」ではなくて、ただの「反米教育」に過ぎない。そんなことで平和がやってくるわけがない。
太平洋戦争でこてんぱんにやられてしまったのが悔しければ、どうしてそんなことになったのかを真剣に考えて、それを学校で教えてみたらどうか。冷静に考えれば国力が桁違いに上であることが分かるはずの相手に、どうしてかくも無謀な戦争を仕掛けてしまったのか、具体的なデータを揃えて教えてみればよい。それこそが、国民が「戦災」に巻き込まれて悲惨な目に遭った、本質的な原因なのだから。
本当に、教育の場を通じて「平和の大切さ」を説くのなら、まず、過去の戦争がどうして起きたのか、そのとき戦争に向かう流れを途中で阻止する手立てはなかったのか、戦争でどんな惨禍が発生したのか、その原因は何か、といったことを系統立てて考える機会を与えてみてはどうか。
もちろん、国民がそうした意識を持っていても、戦争を起こすかどうか決めるのは戦争で直接的に被害を受けることの少ない国家指導者だから、実際に自分たちが戦乱に巻き込まれるのを阻止できるかどうかは分からない。しかし、過去の歴史を直視した上で、そこにある教訓を真摯に学んでいれば、国家が危機に瀕しているかどうかを自分で考えて判断する役には立つ。
私見だが、歴史の教育というのは、「何があったかを知る」のが重要なのではなくて、「過去の歴史から何を学ぶのか」が重要ではないかと思う。
それには、実際にあった出来事を直視し、正の歴史も負の歴史も (どこの国も、この両方を持っている。どちらか一方だけということは、まずあり得ない) 見据えることが必要だ。また、それに対して各界でどのような意見が出ているかということを知ることも必要だ。そのとき、一方の意見だけを教えるのではいけない。どんな歴史上の出来事にも、いろいろな見方がある。それをできる限り幅広く知らせなければいけない。
それらをすべて吸収した結果としてどういう歴史観を持つかというのは、個人の思想信条に属する問題なのであって、権力者、教師、言論人、あるいは近隣国家といった連中が「かくあるべし」と押し付けるべきものではない。
与えるのは材料だけでよいのだ。それをどう料理するかは、個人個人の裁量に属する問題ではないのか。どのような視点に立脚するのも個人の自由だが、どの立場の論者にしろ、自分たちの主張を広めるために教育を利用しようとするような姑息な真似をするのは止めてもらいたいものだと思う。右翼も、左翼も、自民党も、共産党も、中国も、北朝鮮も、アメリカもだ。
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