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井上孝司の Defense Column
〜 戦争ってなんだ? 平和ってなんだ?右派にしろ左派にしろ、なにかと簡単に「戦争」とか「平和」という言葉を使うが、いったいどういう事象を指す言葉としてこれらの言葉を使っているのだろうか。まずは、「戦争」について考えてみよう。多分、このような定義が一般的なのではないかと思う。
国家間の争いごとを解決するに際し、話し合いではなく武力をもって、強引に解決をつけようとする行為 なるほど、第二次世界大戦のような戦争は、この定義で間違いないだろう。しかし、過去の歴史をひもといて見ると、必ずしもこの定義に厳密に当てはまらないケースも出てくる。たとえば、最近の例なら一連のユーゴ内戦だ。
ボスニアも含めて、内戦というのは「国家間の争いごと」ではなかったりする。「国家内の対立する勢力間の争いごと」だ。また、国家体制の転覆をもくろむテロ事件なども、こうした「一般的な定義外」の戦争に該当するだろう。業界用語でいうところの「低強度紛争 (LIC)」だ。
極端なことをいえば、オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件も、立派なテロ行為であり、低強度紛争の一種といえる。どうも、日本の「平和運動」やマスコミ報道には、この種の「低強度紛争」に関する認識が欠けているように思うのだ。そのいい証拠がユーゴ関連報道で、コソボやボスニアで「民族浄化」が行われていたときにはロクに放送もしなければ反対運動もしなかったのに、NATO の「空爆」に対しては非難囂々だったではないか。誰か、「民族浄化」に反対してユーゴ大使館にデモをしに行った人がいただろうか?
あるいは、ペルーの人質事件の際に「平和的解決」を主張する向きが多く見られたが、そもそも「自分達の言い分を暴力で通すのが仕事」のテロリストを相手に、「平和的解決」も何もあったものではない。フジモリ大統領が強行突入を断行したのは、至極当然の判断だ。
なるほど、たとえば NATO の「空爆」はレッキとした「戦争行為」だから、反対運動や批判的報道の対象として非常に分かりやすいのは認める。しかし、人命が損なわれているという点では、むしろその前のボスニアやコソボでの「民族浄化」の方がはるかに大規模で、かつ長期的だったのではないか。「民族浄化」は国家規模の戦争ではないから放っておく、NATO の介入は国家規模の戦争だから反対、というのは筋道が無茶苦茶だ。人命がどれだけ損なわれているかを基準にして考えてみてもいいのではないか。
なお、もし「民族浄化という事実は存在しなかったから報道しなかったのだ」というなら、ちゃんとその事実を取材して報道すれば納得するが、そういう訳でもないのが実情だろう。
お断りしておくが、私は NATO の空爆を、必ずしも全面的には支持しない。そもそも、空軍力だけで紛争が解決したためしはないのだ。現に、地上軍を投入しても、ゴタゴタが収まる気配は見えない。
しかしながら、空爆だけを非難する気にもなれないのだ。
どんな報道にしても運動にしても、(このコラムも含めて) まったく何のバイアスもかかっていないということはあり得ないから、多少の偏りが生じるのは致し方ないと思う。しかし、
などなどの事象を見るにつけ、「なにか間違ってないか?」と思う私は、おかしいのだろうか。どうも、「反戦運動 ≒ 反米運動」の気があるといったら、いいすぎだろうか?
- ユーゴの「民族浄化」は放っておくくせに、NATO の「空爆」は非難する報道
- アメリカが介入したベトナム戦争には反対して「ベ平連」をつくったのに、ソ聯が介入したアフガニスタン紛争は知らん顔で「ア平連」などつくりもしない「平和運動家」
- アメリカの核兵器には反対するが、ソ聯の核兵器は正しい核兵器だと放言した、かつての社会党
- もうひとつ書くと、沖縄の少女暴行事件には大騒ぎしたのに、北朝鮮の拉致疑惑にはダンマリを決め込む社民党。どちらも日本人の生命に対する危機という点では同じハズだが…
- アメリカやフランスの核実験には猛反対するのに、インドやパキスタンの核実験、イラクや北朝鮮の核疑惑にはトーンダウンする「反核運動」
- ことアメリカが関係する大規模な戦争になると反戦デモをするくせに、たとえばインドとパキスタンがカシミールで撃ち合いをやっていても、中国がチベットで民族運動を弾圧していても、ルワンダで何万人も虐殺されても、何もいわない諸兄
「平和」といっても、「本当に戦争の気遣いもなく安心して暮らせる状態」から、「対立状態が続いていて、いつ戦争になるかと警戒しつづけている毎日」とか、「戦争が宣言されてないだけで、実は弾が飛んで来たり地雷の心配をする毎日」まで、実はいろいろなレベルがあるように思うのだが、その辺の定義を曖昧にしたままで「反戦」も何もあったものではないと思う。
せめて、「戦争とは」「平和とは」の定義をはっきり掲げた上で、自分が掲げるこの定義に合わないからこれこれには反対、というような主張の仕方をしてみてはいかがだろうか。先週のコラムにも書いたが、「戦争の香りがするものを取り除く」だけで平和が来るという考え方は、いくら何でもおめでたすぎる。戦争をしないで済むならその方がいいに決まっているのだが、反対するならするで、もうすこし筋の通った反対の仕方をしてもらいたいものである。極端なことをいえば、中国や北朝鮮の味方をするための反戦運動というのは願い下げだ。
まあ、よしんばそんな背景があったとしても、当事者は絶対にそのことを認めないだろうと思うが。![]()