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井上孝司の Defense Column
〜 英雄や新兵器に頼っていては、戦争に勝てない最近はそれほどでもないのかもしれないが、ひところ、「架空戦記」なるものがブームであったらしい。特に、負け惜しみからか、太平洋戦争の「大逆転」モノが結構多かったようである。その種の小説や漫画では、往々にして、超人的な能力を持つヒーローであるとか、革新的な「超兵器」が大活躍して戦勢を有利に導いたりするものだが、あれはエンターテインメントとして必要だからそうなるのであって、現実の戦争で、そんな「ヒーロー」だの「超兵器」だのをアテにしていては、絶対勝てない。
戦史をひも解いてみると、確かに、ずば抜けた撃墜記録を持つ戦闘機パイロットとか、凄腕の砲手や潜水艦長といった人は実在するのだが、そういう人の大半は、戦い半ばにして戦死しているケースが非常に多い。352 機を撃墜しながら生き抜いたエーリッヒ・ハルトマンなどは、むしろ例外中の例外である。
そうなる理由はいろいろあるが、日独の場合は、優れた実力があったがゆえに酷使され、最後に力尽きたというケースが目立つ。理由は簡単で、代わりがいないからである。どんなに凄腕の戦士でも、そう大人数は揃えられないから、結果的に酷使され、いずれ限界がくる。そして、そうした人材がやられてしまった途端に負けてしまったのでは困る。
また、ずば抜けた記録を残しているのは、それだけ長く戦場にいたからだという見方もできる。つまり、酷使されたからこその好結果というわけだ。アメリカやイギリスの「撃墜王」の撃墜記録がやたらと少ない理由の一つは、きちんと一定間隔で後方に退いていたからだろう。
それに、酷使されやすい戦時でなくても、誰もがいずれ、年齢的な限界などで現役を退く日がやってくる。それで戦力が大幅に減少してしまっては、軍隊としての用を成さない。むしろ、個人の資質に頼らない、誰でも一定の戦力になれるようなシステムを持っている国の方が、結果的に強い。
もちろん、凄腕の戦士がいる方がいいに決まっているが、それがいなくても戦力が急減しない軍隊こそが、理想的だろう。
「新兵器」にしても同じことだ。デビューしたときに大きな威力を発揮しても、何回も使われれば手の内も読まれるし、そうなったときに当初の強さを発揮できるかというと、なかなかそうもいかないだろう。だから、恒常的に通用する「超兵器」などというものは、まずあり得ない。
それに、個々の分野で「超兵器」を目指すあまり、いろいろな兵器をてんでばらばらに開発していては、兵站支援の面で非常に不利だ。いい例が日本陸海軍で、たたでさえ貴重な技術者のリソースを割いて、彩雲や 100 式司偵のような「偵察専用機」などを開発したのは、完全に誤りである。
個人的には、彩雲は非常に好きな機体なのだが、冷静に見れば、わざわざ偵察にしか使えない機体を手間ひまかけて開発する人と資源があるなら、主力の戦闘機や爆撃機の開発につぎ込むべきであった。
偵察機などというのは、偵察員とカメラが積めてスピードが出ればいいのである。それなら高性能の戦闘機を作って転用すれば済むことだ。その点、むしろ日本に比べて余裕があるはずのアメリカが、戦闘機や爆撃機の転用で偵察機の需要を充足していたのは、注目に値する。いちいち個別の任務に対応した兵器を別々に開発するよりも、むしろ、優れた基本性能を持つ「標準的」な兵器をまず開発し、そこから段階的に発展させたり派生型を開発する方が経済的だし、兵站支援の面でも関連要員の教育の面でも有利ではないだろうか。
過去も現在も、そういうことをやらせると、アメリカが一番うまい。逆に、複数の設計局がバラバラにシステムを開発していたソ聯の SLBM とミサイル原潜は、悪い方の見本といえる。もちろん、いくら兵器の数ばかりが揃っていても、某国のように、使い物にならないぐらい性能レベルが低くては困る。だが、「あとわずかの性能向上」のために膨大な手間と資金がかかり、あげく構造が複雑化するなら、多少の性能は我慢しても、数を揃え、補給整備がしやすいようにしておく方が、実戦ではきっと役に立つハズだ。
ときどき、架空戦記や漫画などの内容を真に受けて、「日本の国防のために海江田 (みたいなスーパーヒーロー) が出て来なければ」などという人がいて困るのだが、本当に必要なのは、ヒーローでもなければ超兵器でもない。確実に信頼でき、十分な数をそろえた兵器とそれをフルに生かす教義、それと、誰でも一定のレベル (それは決して超人的なレベルである必要はない) に到達して戦える教育・訓練システムである。
そういう観点からも、太平洋戦争の敗北を再検討してみる必要があるのではないだろうか。![]()