井上孝司の Defense Column
 〜 日本人は本当に「平和を愛する国民」か?

最近話題の「沖縄基地問題」でも、核実験のときの抗議声明でも、なにかにつけてよく聞くフレーズが、「日本人は平和を愛する国民で云々」という類のフレーズだが、果たして、これは本当なのだろうか。

なんてことを書くと非難囂々だろうが、あえて今回はタブーに挑戦してみよう。


だいたい、日本の歴史だけが突出して戦乱が少ないというわけではないし、日本でだけ特別に、反戦平和運動が盛んであったというわけでもない。つまり、このフレーズがよく聞かれるようになったのは、太平洋戦争後と見るのが妥当だろう。

その太平洋戦争にしても、初期の勝ち戦が続いている頃には、戦捷の催しということで提灯行列をやったりしていたのが、戦局が逆転して負け戦になり、国土が焼け野原になった途端にコロッとひっくり返ってしまったというわけだ。

そして、信用が置けない話の極めつけだが、戦時中は「国のために死ね」と子供を教育していた教師が、敗戦後は豹変して「平和教育」に熱心になり、教科書に墨を塗らせたというのだからおそれいる。そして、いまや日教組といえば、「平和教育」に熱心であるということになっている。

そもそも、日本人が本当に「平和を愛する国民」であったのなら、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦で同様のムーブメントが起きなかったのはどうしてか。「それは、言論が抑圧されていたからだ」という言い訳が出てくるのは間違いなかろうが、それにしては、太平洋戦争で提灯行列を嬉々としてやっているのだから説得力が薄い。だいたい、日露戦争のときには、講和の条件を不満として焼き討ち事件まで起きているではないか。


明治以後、戦争の影響が国民生活にモロにかぶってきたのは、太平洋戦争が初めてだ。それまでは勝ち戦だったこともあり、「戦争」の影響というのは直接的には国民生活には影響してこなかった。だから、「太平洋戦争で始めて戦争の悲惨さを知ったのだ」という言い訳が出てくることになりそうだ。
なるほど、それはそれで筋が通っているように見えるが、いいかえれば、「自分たちに影響がなければ目が覚めない」ということなのだから、さほど誉められたものではない。

結局、批判を承知で言い切ってしまえば、日本人は「戦争」そのものが嫌いというよりは、前回の「負け戦」で懲りたというだけの話なのではなかろうか。日本人が嫌いなのは戦争そのものではなく、「負け戦」なのだ。

それが証拠に、たとえば映画でも TV ドラマでも書籍でも、戦国時代モノやチャンバラはオーケーなのに、太平洋戦争ないしは現代戦モノだけが批判されたりするのが実情だ。規模の程度はどうあれ、どれも戦争や殺し合いに違いはなかろう。

また、巷にはびこる「シミュレーション戦記」という名の「妄想戦記」の多くも、内容は「太平洋戦争の負け戦を都合のいい前提に基づいて逆転する負け惜しみ」である。また、「ゴー宣」を筆頭に、太平洋戦争の戦争目的を正当化する類の身勝手な本が売れているという傍証もある。それらがまた売れているということは、結局、太平洋戦争の負け戦が嫌だっただけということなのではないか。


だいたい、日本人はムードに流されることの多い国民だ。たまたま今は「平和」を語る方がトレンディだから「平和愛好勢力」が強いが、その「平和愛好」にしても、蓋を開けてみれば、「戦争の匂いがするもの」を目の前から取り除こうというだけの、非常に底の薄いものだ。だから、「基地のない平和な○○を」という類の運動がひきもきらない。悪いが、それは単なる当事者の自己満足に過ぎない。

こんな調子だから、世の中の流れが変われば、過去に言ってたことはコロリと忘れて、日本人の意見がモロ手を挙げて「戦争賛美」に方向転換しかねない。そっちの方が心配だ。果たして、日本人はこれでいいのだろうか?

もっと、戦争が起こる原因について本質的な部分から考えた意見も聞きたいのだが、どうも情緒的な声ばかりが聞こえてくるのが実情だ。
リデル・ハートも言っているではないか。「平和を欲するなら、戦争を理解せよ」と。

もちろん戦争はしない方がいいに決まっているのだが、そのためには、ヒステリーではない、もっと現実を見据えた議論が必要ではないかと思うのだ。それができなければ、「平和を愛する国民だ」などとは恥ずかしくて言えないだろう。