Opinion : 国家戦略不在で貢献論議を行うことの不毛 (2001/10/1)
 

「歴史は繰り返す」というが、なにやら最近、10 年前の湾岸戦争のときと似たようなゴタゴタが起きている。いうまでもなく、「国際貢献」をめぐるゴタゴタだ。

この手の議論では、「右」が「軍事的貢献」を主張し、それに対して「左」が「軍事的貢献などとんでもない」と反論するのがお約束だ。今回はさらに「有事法制反対」なんていう話まで割り込んできたが、これは「有事法制反対」といいたくて、国際貢献反対論議に強引に割り込ませている「マッチポンプ」の臭いがする。

この件もこの国における恒例行事で、話がどうも両極端に走り過ぎているように思える。その一方で、根本的な議論が置き去りになっている点に危惧を覚えるので、今回はその辺について考えてみたい。


まず、「国際貢献」とは何か、ということを考えてみたい。

国際社会に限らず日常生活でも同じことだが、「地位あるものには、それ相応の責任」というものがつきものだ。だから、企業経営者や一国の宰相にはそれ相応の責任が伴うし、「期限付きの帝王」と呼ばれるほどに強大な権力を持つアメリカ大統領に至っては尚更だ。(そういう意味では、MiG-25 が強行着陸したときに政争に明け暮れていた三木総理は、責任を果たしたとはいえないだろう)

裏を返せば、社会的地位を持たない人には、責任もない。たとえば、稼ぎもなければ権力もない小学生や中学生に対して、その立場の故に何か社会的貢献をするように、という要求が生じることは、まずない。

では、国際社会の中で日本が置かれている立場はどうだろうか。

不況だ不況だといわれつつも、日本が世界経済の中において占めている位置は、決して小さいものではない。日本製、あるいは日本のメーカーの看板を付けた工業製品は世界中に行き渡っている。
あいにくと、政治的な地位の方は世界各国から一目置かれる、というレベルではないが、経済的立場だけでも、何かあれば他国から「日本はどうするんだ」といわれる理由はあるのだ。

それに、石油を初めとするさまざまな原材料や工業製品を外国から輸入しないと日本経済は立ち行かないのだから、国際社会の中で何がしかの「責任を果たす」という姿勢を見せないと、日本は結果として国際社会からつまはじきにされて窒息してしまう可能性がある。それに、何か軍事的危機が発生した際にも、日本を助けようという気が起こる国がなくなってしまうのではないか。

ときどき、「日本製品は優秀なんだから、日本が何もしなくたって、みんな大事にしてくれる」という人がいるが、とんでもない話だ。その「優秀な日本製品」を生み出すための環境が、日本だけの力で成り立っているわけではないという事実を、そうした論者は忘れ去っている。

社民党お得意の「非武装中立」論だって同じだ。「非武装中立」というのは、ぶっちゃけた話「日本さえ平和なら、他国のことなど知ったことじゃない」という意味とも取れるが、日本が他国との関係の中で生きている以上、自分さえ平和なら後は知らん、という身勝手は受け入れられないだろう。


では、どういう「貢献」をするのかという話になるが、そこで問題なのは、「軍事的貢献」に話が矮小化されてしまう点にある。なにも、軍事的貢献だけが国際貢献というわけではあるまい。

もちろん、プロの軍人が出て行かなければならない局面というのは少なくない。平和維持活動はその典型例で、武装した勢力がにらみ合っているところに乗り込んで両者を引き離すには、しかるべき訓練が行き届いたプロの軍人が出て行かなければ、やっていけない。悪いが、素人の民間人で勤まる仕事じゃない。

だが、そういう形の国際貢献だけが全てではないだろう。昨今話題の「難民救援」だって、困っている人に日本が手を差し伸べるという点で、実際に一緒になって戦争する「軍事的貢献」にひけを取るものではない。これだって、立派な国際貢献だ。

だいたい、ああいう局面での難民救援は、決して簡単な仕事ではないはずだ。環境の厳しさだけでなく、ひょっとしたら難民に紛れ込んだゲリラの一人や二人、存在しても不思議はない。そうした難民救援活動は、決して生易しいものではないのだから、自衛隊が救援活動に出て行っても、まったく不自然ではない。

また、アメリカが「HDR (Humanitarian Dairy Ration)」という名の難民援助用保存食を作って提供しているが、ああいう形の貢献だってある。
HDR については「戦闘糧食の三ツ星をさがせ !」に詳しいが、HDR が偉いと思うのは、パッケージから何から星条旗が満載で、それを受け取った側が「助けてくれるのはアメリカだ」と刷り込まれるようになっている。

日本ではつい、「名乗るほどのものではない」とかなんとかいって、黙って貢献する方が正しいと考えがちだが、それは日本の社会の中でだけ通用する考え方だと思う。国際社会の中で「日本はこんなに活躍してるんだ」とアピールするには、援助食糧でも自衛隊派遣でも何でも、日の丸満載で乗り込むべきではないか。

つまりは "show the flag" という考え方そのもので、ゴタゴタが発生している現場に「日の丸」を立てて、「日本も身を挺して何かやってます」というところを見せることが重要なので、それは一緒に戦争することに限定されないハズだ。
湾岸戦争のときにどうして叩かれたかといえば、「自分だけ安全なところにいて、カネだけ出すとは怪しからん。しかも、それでいて石油だけは欲しいとは何事か」という理由があったからではないのか。


日本の「国際貢献」論議で不毛なのは、賛成派も反対派も、はなから「軍事的貢献」にしか話が行かない点だ。それで、日本国内でしか通用しない論理で内ゲバばかりやっているから、それを外国から見ると「日本は頼むに足らず」ということになり、結果として、国際社会における日本の政治的地位低下につながっているのではないか。
つまり、軍事的貢献をしないから政治的地位が低いのではなくて、国際社会に対する関わり方に関して一貫したポリシーが欠如していることと、カネさえ出せばよいという安直な姿勢が、政治的地位の低さにつながっているのではないのか。

「日本国内でしか通用しない論理」が悪い方向に出てしまった典型例が、PKO に関する武器の携帯や使用をめぐるゴタゴタだろう。
先にも書いたように、PKO というのは丸腰の民間人には務まらないような局面だからこそ、プロの軍人が出て行くのだ。危険は当然予想されるはずで、だからこそ、(先制発砲しないという歯止め付きで) 武器の携帯も必要なのだ。それを、あまつさえ武器の携帯を禁じたり武器使用に制約を課し過ぎるのは、自称平和主義者の自己満足に他ならない。自分が危険な場所に出て行かないからこそ、そんな暢気なことがいえるのだ。

それに、「後方任務」に限定するというのもおかしな話だ。「兵站」のことを「後方」などと言い換えるから話がややこしくなるのだが、最前線で戦闘するのは駄目で、それを支える兵站なら OK というのは、日本でしか通用しない屁理屈だ。運ぶのが食料だろうが医薬品だろうが弾薬だろうがトイレット・ペーパーだろうが、前線で戦闘する部隊を支える兵站活動に違いはあるまい。
ついでに書けば、「戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで活動が実施される期間を通じて戦闘行為が行われないと認められる地域」という定義も変だ。そんなもん、紛争地帯でいったい誰が保障できるのか。戦闘行為が発生する可能性があるからプロの軍人が必要なのではないか。

このように、内輪でしか通用しない論理でおかしな規制を課して、実際に任務に当たる自衛隊員に余計な苦労を背負い込ませたり、裏口からコソコソと送り出すような真似をしなくてはいけないというのは、まったく不幸なことだ。日本の看板を背負って自衛隊員を出動させるのなら、歓呼の声とともに送り出し、また迎え入れられなければ、現場の自衛隊員が気の毒だ。

参考までに私の意見を付記すると、アメリカと一緒になって外征戦闘する以外のことは、できる範囲でなら何でもありじゃないかと思う。アフガンに自衛隊が出て行って戦争するのは「自衛」の範囲を逸脱しているし、それを強行すれば中国や北朝鮮に突っ込まれるチャンスを与えるだけだから、戦闘行為については「自衛限定」にする方が無難だ。
その代わり、物資の提供や輸送、補給ルートの護衛、国内にある米軍基地の警備、難民救援、地雷や機雷の除去といった任務を日本が肩代わりすれば、その分だけ同盟国の負担は減り、戦闘任務に多くの資産を投入できることになる。また、そういう形で日米間のアライアンスを示すことは、日本有事の際の共同防衛にもつながるから、一種の抑止力になるハズだ。

国際貢献について議論するのは結構だが、まずは日本がどういう形で国際社会に対して関わっていくのかという根本的なポリシー (戦略) を、平素からしっかりと定めておかなければ駄目だ。その上で、日本の現状から見て可能なことのうち、実効性が期待できるものとして何ができるかという手段 (戦術) について考えるのが本筋だろう。もちろん、その際に自分が「平和主義者」の顔をしたいからといって選択肢を狭めるというのは願い下げだ。
ともあれ、普段は何も考えずにいて、騒ぎが起こった途端に「軍事的貢献」論議ばかりが先走るのは、あまりにも格好悪すぎる。

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