Opinion : "自主" なら何でも偉いのか ? (前編) (2003/2/24)
 

「ステルス艦カニンガム」シリーズでおなじみの J.H. コッブの小説には、しばしば「UNODIR」という言葉が出てくる。本当に米海軍にこの言葉があるのかどうか知らないが、"Unless Otherwise Directed" の略で、「特に指示がなければ自主的に所定の行動をとる」、いいかえれば「事後承諾」という意味であるらしい。

ただ、曲がりなりにも軍事作戦で事後承諾というのは、小説の中ではともかく、実際にはあってはならない話だと思う。そんなやり方が横行したら、軍隊と人殺しを区別する最大の相違点である「統制」が成り立たなくなってしまう。

もっとも、かつての某国のように、「独断専行」と称して UNODIR まがいの行為を連発した事例もあるが、その某国が後でどのような目に遭ったかを思えば、やはり褒められた話ではない。


この UNODIR で問題なのは、「自主的に」という言葉だ。

一般的に、「自主的」というと、比較的ポジティブな受け止め方をされることが多いように思える。たとえば、戦後の日本で延々と国論を二分している改憲問題にしても、改憲を主張する側は「自主憲法」という言葉を押し出しているし、外交についても「対米追従ではなく自主外交を云々」などと主張する向きが、必ずいる。

では、看板に「自主」と付けば何でも正しいのかというと、必ずしもそうとはいいきれない。ことの良し悪しを判断するのは内容であって、看板に「自主」と付くかどうかではない。

たとえば、「対米追従外交を止めて自主外交を」という主張について考えてみよう。
対米追従を止めて自主的に行動するということは、政治、経済、防衛など、さまざまな分野において、アメリカの後ろ盾を使わずに、自力でなんとかするという意味だと解釈できる。では、果たして今の日本の政治・経済・防衛などが、「アメリカ抜き」で成り立つかどうかということを、自主外交論者は考えたことがあるのだろうか。

経済ひとつとっても、日米間の結びつきは極めて強いものがあるし、輸出入の双方で、日本がかなりの部分をアメリカに依存しているという事実がある。それを全てとはいわないまでも、ある程度失う可能性が存在するときに、その「自主外交」によって得られるものと失うもののバランスシートが、果たして日本にとって都合のいいものになるだろうか。

ましてや、防衛面においては説明の必要すらないほどだ。
当節、すべて自力で十分な防衛力を確保するという方針を取っている国は、極めて少ない。一般的な傾向としては、ある程度 (完全に、というのは無理だ) 利害が一致する国と国とが同盟して、互いに連携して防衛力を構成するという「集団的安全保障」の考え方が主流なのは間違いない。NATO しかり、EU しかり、ECOWAG しかり。

例外としては、周辺に目立った脅威が存在しないコスタリカや、"自主防衛" にこだわって高い負担を我慢しているスウェーデンやスイスがあるが、永世中立国としてのスウェーデンやスイスを礼賛する人はたくさんいても、これらの国が抱えている軍事的負担に言及する人がいないのは、片手落ちも甚だしい。
コスタリカのケースにしても、あの国の周辺には、大量破壊兵器を開発して周辺諸国を恫喝したり、近隣諸国の領海内に工作船を送り込んだり、他国の一般市民を勝手に拉致したりするような国はない。それと比べるのは変だ。

かように、「自主外交」のコストは、場合によっては極めて高くつくものなのだ。そこまで考えた上で「自主外交」を主張しているのかどうか、問い質してみたい気がするのは私だけだろうか。


政治でも外交でも、最終的に目指すべきは、国家と、そこで暮らす国民に対して、最大限の利益を提供することだ。利益といっても経済的利益に限った話ではなく、平和や安定だって利益のひとつだし、自由にモノのいえる体制も利益のひとつといえなくもない。

その利益を犠牲にして「自主性」を追求するということは、ちょっと過激な言い方をすれば、「自主性」という宗教のために、国民に対して「殉死する可能性を甘受しろ」といっているようなものだ。そこまでして「自主外交」を許容する国民が、いったいどれだけいるだろうか。

というところで、他にもいろいろ書きたいことがあるのだが、全部書いていると分量が多くなり過ぎそうな感じがするので、続きは来週に回したいと思う。

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