Opinion : 2 つの "未必の故意" (2005/4/11)
 

なんか最近、「未必の故意」ということを考えさせられる事件が続いている。

「故意」は、行為の結果として発生する事態を認識した上で意図的に行うもの、という定義で間違っていないと思うけれども、「未必の故意」はもうちょっと弱くて、「ひょっとすると、こうなるかもしれないけれど」と思いつつ、それでも意図的にやってしまった、という場合に適用される概念だと説明すればいいだろうか。
これが、結果を予測していなかった場合には、「過失」ということになる。


まず、東部伊勢崎線・竹ノ塚で発生した踏切事故。

警察や検察の仕事は、直接的な原因を作った当事者を捕まえて罰するところにあるから、列車が来ているのに踏切の遮断機を上げてしまった保安員を逮捕して、「業務上過失致死罪」で立件、起訴すれば用は足りる。

ここで、「規則を破って遮断機を上げた保安員」を「たるんでいる」といって吊し上げるだけなら話は簡単だ。ところが、それは自分が正義の味方だという書き手の自己満足にはなっても、事故の再発を防ぐには何の役にも立たない。だが、たいていのマスコミは、以前に「『責任者出て来い』という名の『無責任』」でも書いたように、誰か責任者を見つけて吊し上げることにばかり血道を上げる。

根本的には、「開かずの踏切」が存在していて、そこを利用せざるを得ない人がいて、毎日のようにイライラさせられているという事情があるわけで、それを解決しないことには問題はなくならない。踏切で遮断機の上げ下げを担当している保安員にしても、イライラしながら待っている人からのプレッシャーを感じることもあるだろうし、安全のために遮断機を下げたら、それで渡り損ねた人から罵声を浴びせられたことだってあっただろう。

踏切をなくすには、線路と道路を立体交差にするしかない。普通、線路の側が譲歩して、高架化して上に上げるか、地下化して下に下げることになる。どちらを選択するかは状況次第で、外的要因から、一方の選択肢しか選べない場合もある。場合によっては、踏切を地下道に入れる選択肢もあり、竹ノ塚ではこれを実行しようとして頓挫した経緯があるらしい。
ともあれ、立体化が根本的な対策だというのは自明の理だが、厄介なのは、これは都市計画に属する問題で、自治体がその気にならなければ手をつけられないということ。だから、東武鉄道だけを責めるのは筋違いというもので、地元の足立区や東京都もステークホルダーの一員ということになる。

ところが、自治体と鉄道会社が立体化をやる気になっても、沿線から物言いがつけば、事業の実現は難しくなる。それは、私が以前から何回も書いている、小田急の線増立体化事業を見れば一目瞭然。陰謀論丸出しでしっちゃかめっちゃかとしか思えない物言いをつけ、事業の推進を阻害した一部沿線住民ならびに某区議みたいなのがいると、立体化したくてもできない、あるいは事業が著しく遅延するということになってしまう。
それは結果として、事業コストの上昇による運賃、あるいは自治体の財政への追加負担という形で経済的な直接損失を増やし、さらに「開かずの踏切」を放置することで、そこを利用する人に対する間接的な経済的損失も引き起こすことになる。

竹ノ塚の場合、立体化事業が頓挫した背景に、地元商店街からのクレームがあったという話がある。どういうことかというと、立体化によって踏切がなくなり、東西の往来が容易になると、反対側にある商店に客が流れるのではないかと懸念して、立体化に反対したというものだ。

立体化に反対すれば、「開かずの踏切」はそのままになるわけだから、その結果として発生する社会的損失、あるいは今回のように無理な運用をしたことで人命が失われる事態については、ある種の「未必の故意」が成立するのではないだろうか。

もちろん、それは自分の商売に関わる地域エゴで立体化に反対した人だけでなく、自治体も、そして当事者である東武鉄道も、関係者全員にいえること。ただ、東武や自治体が立体化をやる気になっていたのに、横槍を入れて潰した人がいる、ということであれば、立体化の話を潰した人に最大の責任があると考える。皆さんはどうお考えだろうか ?


「未必の故意」ということで、もうひとつ。

竹島の一件で韓国が、そして教科書や国連常任理事国の一件で中国が反日運動を加速させているのは、皆さんも御存知の通り。なんでも、「誤った日本の態度と行為に不満を抱いている北京の人々が自発的に行ったデモだった」(中国外務省の秦剛副報道局長談) というのだが、どこまで信用してよいのやら。

上のリンクは産経新聞社の Web サイトだが、これが朝日新聞になるとさすがにトーンがおとなしく、「デモを制御できない当局の弱さが云々」なんて話になっている。ただ、ここでいいたいのは、朝日と産経の立ち位置の違いではない。

そもそも、中国政府はこれまで、外部に敵を作るために日本を悪役にして、何かにつけて「過去の謝罪」を持ち出して圧力をかける、一種の "ゆすりたかり外交" をやってきたのは事実だ。いってみれば水戸黄門の印籠のようなもので、これを出せば日本政府はおとなしくなるだろうという、必殺カードといえる。

そうしたやり方の一環として、特に江沢民時代以降、国内で「反日教育」を熱心にやってきたのは否定できない事実のハズ。そして、一党独裁の国家体制において、自国の国民に対してどのような教育を施すかについて、共産党の統制が行き渡っていないハズがない。教育とは、国家の意思を国民に浸透させるための最大の武器なのだから。そのため、ちょいと燃料を投下すれば、今回のような騒ぎに発展する下地があったわけだ。

中国に限らず、どこの国でも「自国は悪くない、悪いのはあっちだ」という主張をすれば、そういう耳当たりのいい話は少なからぬ支持を得るもので、日本も例外ではない。だから、政権維持のための方便として日本を悪玉にした反日教育をやり続ければ、きっかけひとつで過激な反日デモに発展する事態になると想定できない方がどうかしている。去年のアジア杯サッカーにまつわる騒動を見れば、十分に予測がつくはずではないか。

よしんば、今回の騒動が "自発的" なもので、中国政府が裏で手を引いたものではないのだとしても、自らが連綿と行ってきた反日教育の成果が存分に発揮されたわけだから、中国共産党には「未必の故意」が成立するのではないか。
今回の件について、秦剛副報道局長は「参加者に対し、冷静かつ合法的、秩序あるやり方で自らの態度を示し、行き過ぎた行動を取らないよう求めていた」(Sankei Web) というのだが、一方で燃料を投下しておいて、一方で消火剤を撒くような二枚舌が受けいれられるかというと、たいへん疑問に思える。責任逃れもいい加減にしろと。

ただ、だからといって我々がここでヒステリーを起こせば、自分の首を絞めるだけ。粛々と冷静に対応すべきなのはいうまでもない。まかり間違っても、「中国人狩り」とか「中国大使館焼き討ち」なんてことは考えるべからず。「未必の故意」で責められるべきは、あくまで中国共産党の歴代首脳部なのだから。

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