Opinion : 美辞麗句ほど気をつけたい (2006/1/16)
 

流行りものに疎い私のことで、例によって LOHAS (Lifestyles of Health and Sustainability の略だそうな) のことはよく知らなかったのだが、さすがに世間でいろいろ騒がれれば耳に入ってくる。最初、「天下の暴論・LOHAS がなんだ」と「週刊文春」みたいなタイトルを付けてみたけれど、LOHAS 自体が本題というわけではないので変えてしまった。

もっとも、以前からさんざんいわれている「環境保護」とか「エコライフ」とか「スローライフ」といったあたりと基本的なベクトルは大同小異で、言葉尻が違うだけなんじゃないの、という気もする。

この LOHAS とやらに限らず、「環境保護」とか「エコ」とかいった類の言葉は、「平和」や「貧困解決」なんかと同じで、表立っては逆らいにくい、いわば水戸黄門の印籠みたいな言葉に分類できる。無論、環境保護は結構だけれど、環境保護という錦の御旗さえくっつければ何でも許されると思ってる人が少なくないことは、ちと問題なのではないか。

例のホワイトバンドにしても、実態は「中国製イカリングを売るキャンペーン」であり、「アドボカシー活動」という名目の下に、収益金を広告・マスコミ・芸能といった業界の中でグルグル回すものでしかない。そこに「貧困問題の解決」という美辞麗句をおっかぶせることで、実態は「アドぼかし」活動になってしまった。まだ儲け足りないと見えて、今年も懲りずに売り続けるらしい。

だいたい、ホワイトバンドでも LOHAS でもスローライフでも、誰かが煽ると「私も私も」と安直に乗っかる人が多すぎる。もともと信念があって、誰も目を付けない頃から地道にやっていたのならともかく、流行りで乗っかったものは、所詮は使い捨ての流行りもの。すべてがそうだとまではいわないけれど、大半の人はいつか忘れ去るのがオチ。
それでは、「環境保護」「エコ」「スローライフ」「貧困問題解決」を呼びかける人が目の敵にしている、大量生産・大量消費の仕組みと変わらない。

ましてや、「環境に配慮した生活のために○○を買いましょう」といって、それまで使っていたものを捨てさせることになれば、いったいどっちが環境に優しいのか分からなくなる。


スーパーに買い物に行くと分かるように、どの業界でもいろいろな名目を付けて、あの手この手で商品やサービスを売り込もうとしている。たとえば、

  • 11 月のうちからクリスマスソングを流してムードを煽る
  • その他の季節モノ、たとえば節分や花見などを名目にしてモノを売る
  • 関西のローカルな風習だったはずの恵方巻とやらが大宣伝されている
  • 今更だけど韓流ブーム
  • etc, etc.
といったものが挙げられるだろうか。

クリスマスにしろバレンタインデーにしろ、本来の趣旨がぶっ飛んで商売のネタと化している現状は否定できない。「聖夜」が「性夜」と化している状況は、いささか暴走していると思う。といっても、そうやって皆がカネを使うことで経済が回っている部分もあるのだ。
こういった「仕掛け」に安直に乗っかるかどうかは個人の価値観の問題だけれど、よほど倫理的に外しているとか、公序良俗に反しているとかいうのでもなければ、こうした販売努力を一概に否定できるモノだろうか ?

どう見ても倫理的に外している例としては、ホテル・インターコンチネンタル東京ベイの「ホワイトバンドをつけよう宿泊プラン」が挙げられるだろうか。さすがに、あれは調子に乗り過ぎだと思うし、非難されても仕方あるまい。

そもそも、世の中の経済が回っている背景、我々が低価格で高品質なものを手に入れられる背景には、大量生産・大量消費という仕組みが貢献している。そのことを全面的に否定してしまえば、経済の仕組みがぶち壊しになる。いまさら、日本経済の仕組みを江戸時代に戻せといっても、そいつは無理な相談というものだ。
それに、ホワイトバンドに乗っかって「貧困問題解決のために債務免除を」と呼びかける人達が論拠にする「先進国の豊かさ」にしても、そうした仕組みの上に成り立っている。

そういう現実からは意図的に (?) 目を背けて、「環境保護」や「貧困解決」という美辞麗句ばかりを表に出して正義の味方のような顔をされるのは、はっきりいって不愉快。要は程度問題なので、極論に走って all or nothing にすると、何事もぶち壊しになる。誰も表立って止められない分だけ、この手の美辞麗句は暴走しやすいのだから。

とどのつまり、「大量生産・大量消費」という仕組み、あるいは「商業主義」といったものを、完全に否定することはできない。要は程度問題なので、「それをやったら終わりだろう」あるいは「それはちょっとマズいんじゃないの ?」という一線を越えない限り、存在を認めて程々のところで折り合いを付けていくのが、現実的な対応ではないかと思う。

本来の環境保護とは「消費を止める」ことではなくて「無駄を省く」ことではないのか。だったら、それぞれ個人が (誰かに煽られたもではなく) 自分の価値観で、無駄だと思うことを止めたり、モノを大切にしたり、等々の行動をとればいい。スローライフにしても、何でもかんでもスローにすればいいってもんじゃない。「狭い日本、急いで行けばなお速い」というのは一面の真実なのだ。

新潟中越地震のときに新幹線が脱線したら、鉄道の高速化に否定的な論調が一時的にゾロゾロ出てきたけれど、それを書いた新聞社の偉いさんが、新幹線の代わりに在来線の各駅停車で「スロー出張」するものだろうか ? そんなことはあるまい。

さらに、この手の美辞麗句が目の敵にしやすいもの、たとえば最近だとスーパーのレジ袋があるけれども、これだって製造・納入することでメシを食っている業界がある。「クールビズ」でスケープゴートにされたネクタイ業界もそうだけれど、さまざまな美辞麗句のせいで泣きが入ってしまった業界はいろいろあるハズ。でも、誰もそのことには表立って苦情をいわないし、いえない。逆らいにくい美辞麗句を掲げられている限りは。


往々にして、こうした美辞麗句がビジネス、あるいは企業や団体のイメージアップの役に立つと考える知恵者が出てくるもの。当節、「当社は環境に配慮して云々」とアピールする企業は当たり前の存在だし、名刺をいただけば再生紙のマークが入っているし、その他の事例もいろいろ。どこもかしこも似たようなアピールをしているから、却って差別化できていない。

そうした状況下でちょいと道を踏み外せば、表でアピールしている美辞麗句の意味はそっちのけになってしまい、商売の方にばかり精を出す事例も出てくる。その典型例がホワイトバンドといえるのではないか。

私がホワイトバンドで問題だと思ったのは、実質的には「広告・芸能・マスコミ業界でカネをグルグル回す仕組みを作った」だけなのに、それを貧困問題解決という美辞麗句でオブラートにくるんでしまったところ。こういうのこそ、一線を踏み外した商業主義という。商売ではないような顔をして商売して、さらにそれを自慢げに語っているところが嫌らしい。

そういえば、「メガバンクは、預金者が預けた資金を環境破壊に使っている」とかなんとかいって、「エコ」という大義名分の下でメガバンクをボイコットして、もっと「エコ」に配慮した貯金をしようと呼びかけている団体があるらしい。ところが、よくよく調べてみたら、要はその団体が掲げる趣旨に賛同した中小金融機関を紹介しているということのようだ。最初からそういうつもりだったのかどうかはともかく、実態はそんな感じになっている。

そりゃまあ、そこら辺の NGO が勝手に貯蓄業なんか始めたら金融庁に叱られるだろうけれど、結局はどこかの金融機関の商品ということに違いはない。事と次第によっては、「エコ」という美辞麗句の下でメガバンクに対抗する中小金融機関の営業施策に利用されているだけ、なんてことにもなりかねない。

これが商売の話ならまだしも、こうした美辞麗句が政治的に利用されたり、他国に対する攪乱工作に利用されたりする可能性だってある。なにも、笑顔でやってくるのはファシズムだけと限らない。
たとえば、急速な経済成長を遂げているライバル国の足を引っ張るために環境運動を煽るとか、軍事力の足を引っ張るために平和運動を煽るとか、そういう類の政治工作は過去にいろいろ存在していただろうし、現在進行中の事例もあるだろう。

たとえ当初のコンセプトが美しいモノであったとしても、それがひとたび商業や政治などのベースに乗っかってしまえば、エコも LOHAS もスローライフも平和運動も、同様の罠に落ちる可能性は常に存在する。

そんな訳で何をいいたいのかというと、表向きの美辞麗句に魅せられてブームや煽りにホイホイ乗っかる前に、「ちょっと待てよ」と立ち止まってみては ? ということ。裏でどんな仕組みが動いているのか、分かったものではないのだから。

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