Opinion : わざと複数の話をごちゃ混ぜにする人 (2008/2/4)
 

先日、mixi で例の「イラク人質事件」に関連して、例の「自己責任論」に反発。誘拐された被害者は日本政府が責任を持って護るべきだという主張に遭遇した。概略、こんな内容。

  • 自衛隊は撤収すべきだという主張は、メディアが取り上げていないだけで、ずっと存在していた
  • 誘拐して自衛隊を撤収しろと突きつけたのは誘拐犯。誘拐された原因も要求の内容も、戦争に荷担している日本と、その政府を支える有権者にある
  • 日本は、アメリカが戦争国債のごとく発行する国債を買い支えることで打ち出の小槌役をやっている
  • 日本人はそういうことを知らないけど、目の前で罪無き父親をぶち殺されたイラクの少年は、その爆弾を買ったお金は日本が支払っていると知っている
  • イラクの邦人誘拐事件でメディアが誘拐された邦人らを叩くようにし向けていったのは、日本政府が戦争に荷担している現実を日本国民に隠そうとする情報戦略だったんじゃないか
  • 一番悪かったのは誘拐犯かもしれないけど、そいつらに憎しみの火をつけたのはアメリカで、そのアメリカの武器弾薬を買っていたのは日本だったから、両国の責任ははるかに重い
  • ミッションを持って現地に行って誘拐された連中に罪なんてない。自己責任がなっていないと叩くべきじゃない

「日本政府はアメリカの戦争行為に荷担している」から「その戦争の現場に行って誘拐された人は、日本政府が護り・助けなければならない」と、話がすっ飛んでしまったのだった。率直にいって、直接原因と間接原因をごた混ぜにした上で、別個に論じるべき問題を強引につないでいるなという印象。

そもそもこれは、「日本政府が OEF/OIF に協力することが国益にかなうかどうか」「その現場にノコノコ出かけていくことに問題はなかったのか (少なくとも、外務省は行くなといっていたわけだし)」「その際のリスク管理に問題はなかったのか」「不幸にして誘拐された後の、被害者周辺の対応に問題はなかったのか」という、それぞれ独立した問題。そして、当時に話題になった「自己責任論」は、世間一般では 2 番目、私の見方では 2 番目と 4 番目に関わってくる問題。

しかも、自衛隊派遣に反対するときには「現地は戦争状態だからダメだ」と主張しているような人達のお仲間が、その戦争状態のハズの危険地帯にノコノコ出かけていくって、そりゃ矛盾していないかと。

さらにいえば、この手の論法で直接原因と間接原因を無理やりつないでしまうと、こんな理屈だって成立してしまう。

あなたがそのコメントを書くのに使っている PC は、Intel か AMD の CPU で動いているのでは。Power Mac だって Motorola だから同じこと。Windows や MacOS についてはいわずもがな。
ということは、PC を購入することで米国企業に売上が入り、その一部は税金という形でアメリカ政府の歳入になる。つまり、結果としてアメリカの戦争行為に手を貸して、爆弾の購入費用を支援しているということ。それであれば、あなたも米軍によるイラク攻撃に荷担して、憎しみに火をつけているのだよ ?

例の冷凍餃子問題もそう。「かつて日本は中国で酷いことをした」→「だから、中国の人が日本に怨みを持って、日本向けの餃子に毒物を入れても仕方ない」→「悪いのは中国の工場じゃなくて、中国に酷いことをした日本人だ」って、まさに別個の問題を無理やりつないで正当化しようとした典型例。

そうじゃなくてこれは、「人間の口に入るモノの安全管理に問題があった。これは食品製造に関わる者の職業倫理としてどうか」というのが根本問題。その製品の行き先がどこの国だろうが、この部分に違いはないはず。A 国向けなら毒物が混じっても OK、B 国向けは毒物が混じってたらダメ、とかいう話じゃなかろうに。

多分、911 の際の「アメリカなら攻撃されても仕方ない」とか「ざまーみろっ」とかいう類の反応も、根っこのところは同じなんじゃなかろうか。こういう人が別のところで、「人の命はみんな平等に大切です」とかなんとか主張するとタチが悪い。


似たような話で、以前からあちこちで紛糾している「死刑制度の是非」をめぐる事例がある。どういうことかというと、死刑制度に反対 (まあ、これは個人の思想信条の問題だからいい) するのに暴走の度が過ぎて、犯罪の被害者に矛先を向ける人がいる、という話。

つまり、「殺人事件の被害者が、記者会見なんかの場に出てきて『犯人に極刑を』と訴えるのは怪しからん」→「そんなことをするから、死刑制度廃止の妨げになる」→「そもそも、被害者の苦しみは加害者の苦しみより少ないではないか」といった具合に話がエスカレート。しまいには、死刑制度廃止の妨げになるのは被害者遺族の存在であり、被害者遺族が悲しみを訴えるのは許せん、といって罵倒してしまうわけ。

「死刑制度反対」が「被害者遺族は怪しからん」にすっ飛ぶから、意味不明の支離滅裂になってしまう。これも先の話と同じで、別個に論じるべき問題を強引に「死刑」というキーワードでつないでいるだけ。どういうことかというと。

  • 被害者遺族の、マスコミへの露出 : これはそもそも、「画」になりやすい風景を欲しがるマスコミの、報道姿勢の問題
  • 被害者が犯人の極刑を臨むことの是非 : 極刑を望むからといって、被害者の家族が加害者に対して私刑を行使するなんてことになれば、それこそ収拾がつかない。そのために法執行機関や司法制度というものがある
  • 罪と量刑の対比 : これは、立法府たる国会で国民の代表が議論して決めるべきこと。そして、いったん決まったものは遵守しなければ、日本は法治国家ではなくなってしまう
  • 被疑者に対する人権の問題 : 捜査、あるいは裁判の過程で適正な手続きをとれるかどうか。適正な捜査や裁判がなければ、量刑も適正には決められない

そもそも、「加害者としての立場」と「被疑者としての立場」を混同しているところに詭弁があると思うのだけれど。被疑者としては、捜査・取り調べに際して守られるべき一線があるにしても、それと罪を償わなければならない加害者としての立場は別物。

個人的には、死刑制度については消極的容認派。現実に殺人を犯す人はなくならないし、犯した罪に見合った刑罰を科すべきではないかという観点と、犯罪に対する抑止という観点からすると、死刑をしません、と宣言してしまうのはどうかと。現実的な落としどころとしては、死刑制度はなくさない、ただし死刑をどんどん執行するかどうかは別問題、というところかなと思った。


いくつかの事例を並べてみて感じたのは。

この手の論旨拡大をする人は往々にして、本来の議論から話を逸らしたいのではないかということ。たとえば、本筋の議論だけだと旗色が悪いから、そこから話を逸らすために間接原因に話を広げて、自分にとって有利 (と思われる) 土俵に場所を変えたいのではないかと。

とすると、こうやって間接原因に話を広げようとしてきたら、それは相手が困っている、あるいは最初から結論や立ち位置を決めていて動くつもりがない、ということの兆候なんだろうなと。

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