Opinion : 戦争はなくせないが、抑え込むことなら (2009/1/12)
 

Gaza Strip における戦闘が止まないもんだから、反対運動に熱心な人があちこちにいる。それは個人の自由だけれども、「イスラエルと Hamas の非対称性が」とかいって、イスラエルによる武力行使はダメ、Hamas が Qassam ロケットなんかを撃ち込むのは OK、みたいな主張をする人がいる。

非対称性があれば武力に訴えてもいいかどうかはともかく、そういう主張をするのは個人の自由ではある。ただし、それならそれで「戦争反対」とか「話し合いで解決を」とか「非武装が合理的」とかいうことはいわないでもらいたいもの。正直に、憎っくきアメリカやイスラエルを滅ぼすためなら武力行使も OK、といえばいい。

よく「戦争はなくせる」とかいう主張をする人がいるけれども、個人的には懐疑的。本当になくせるなら、これまで戦乱が絶えなかった理由が説明できない。こういうと「アメリカの陰謀があqwせdrftgyふじこlp」という人が出てきそうだけれど、じゃあ西暦 1776 年以前はどうだったの ?

結局のところ、人間の心の中に「憎悪」の感情がある限り、戦乱の種は常に存在するということなのでは。上の例でいえば、「アメリカ」や「イスラエル」に対する憎悪。

「イスラエルを滅ぼせば問題解決」でも「Hamas を滅ぼせば問題解決」でも根っこは同じで、どちらをとっても無限ループ。なのに、Hamas に対しては肯定的、イスラエルに対しては否定的、かつ戦争反対、なんてことをいうから目茶苦茶な話になる。


現実問題として、「国家」のレベルで友好関係を実現したい、あるいはせめて緊張を緩和したいと考えていても、それがそのまま個人のレベルまで適用できるかというと、難しい。国家元首同士が友好条約にサインするのと、国民のレベルで友好意識を実現するのはまったく別の問題。

実際問題として、「私の家族が○○人に殺された」という類の怨念は、当事者個人だけでなく、代々語り継がれて引っ張られることがよくある。そして、怨念が復讐につながり、それが今度は反対方向の怨念や復讐につながって、以下無限ループ。

そこまで極端な話でなくても、「○○国に旅行したら不愉快な目に遭った」とか「△△国の奴に、ネット上で不愉快な思いをさせられた」とかいう類の経験を持っている人は多いと思う。私もそういう経験があるし、身内にも似たような事例がある。

こんな、個人の胸の中に宿った怨念まで国家はコントロールできないし、できたらできたで、それはまたトンでもないことになる。だから、個人のレベルで怨念を溜め込んでいて、それが原因で過激な行動に出る跳ねっ返り者が出現する可能性までは、完全には阻止できない。

とはいっても、パレスチナ問題についていえば、「パレスチナ自治政府」という単一の窓口があれば、まだしも問題を解決する糸口がつかめてくるかもしれない。一般に外交というものは国と国とのやりとりだから、それと同じ考え方で。

しかし実際には中東やアフリカでよくあるように、相手が複数の組織に分裂してしまっている。同じパレスチナ人がらみの組織でも、Fatah と Hamas は考えが違う。それぞれがイスラエルと戦っているだけでなく、パレスチナ人がらみの組織同士でいがみ合っている。中東やアフリカには、この手の話がやたらと多い。

こんな状態では、誰かが「穏健に解決の糸口を捜そう」といっても、他方では「話し合いなんてとんでもねぇ、敵を殲滅せよ」とかいうことになりがち。そして、誰だって自分が生きているうちにインスタントに問題を解決したいから、往々にして過激で先鋭的な立場をとる側に支持が集まってしまう。これでは、まとまるはずの話もまとまらない。

面白いことに、この国でも「軍隊をなくせば平和になる」とか「話し合いで解決を」とか主張している人に限って、論点の問題点について突っ込まれると、人の話を聞かないで「荒らし」「誹謗中傷」「ネット右翼」などといって逆ギレする。まずは自ら「話し合いで解決を」を実践してみたらどうだろう。実践しないで実戦してどうする。

そんな調子だから、自分と見解を異にする人に対して強烈な憎悪をたぎらせていることが多いし、「○○さえなくなれば自分達の目的は達成される」とかいうことを平気で主張する。過去の選挙で自民党に投票した人を、まるで罪人であるかのように、上から目線で罵倒する人もいる。

個人のレベルでもこの調子なのに、長いこと対立の歴史を積み重ねてきた国家、あるいは民族同士が、そう簡単に融和できると思っているのだとしたら矛盾の極み。そして、そういう憎悪の感情を抱くことを阻止できない以上、どういうレベルかはともかく、戦乱の種は常にあるということ。


ところで。一般的に文明社会とされるところで個人、あるいは組織単位の怨念が発生したとしても、それが殺人事件にまで発生しない場合が多いのはなぜかといえば、「殺人はよろしくない」という倫理的規範や、「殺人なんてやれば司法機関にとっつかまる」という抑止の力が働いているから。

多分、国家や部族といった単位のモメ事にも同じ考え方が適用できるのだろうけれど、さんざ血を流したところで、いきなり「倫理的規範」を持ち出したところで、それが通用するとは限らない。それであれば次善の策として、軍事力の均衡による抑止などの手段で「戦争のコスト」を上げて、抑え込みを図るしかないのでは。

とりあえず、そうやって最悪の事態に発展することを防ぐことができれば、その次に初めて、「緊張緩和」そして「友好」へと、漸進的に話を進めていくことができるのでは。この間まで殺し合っていた民族同士が、いきなり「はい、じゃ今日から仲良くしましょう」ったって無理なのだから。時間をかけて融和を図るとか、「闘争疲れ」を待つとか、手法はいろいろ考えられるけれど。

性急に「紛争」から「友好」に事を運ぼうとするから無理が出てくるのであって、優先順位をつけて重要なところから少しずつ話を進めていかないと、また揺り戻しが発生してグダグダになってしまう。長い年月をかけて積み重ねられた怨念は、同じぐらい長い時間をかけないと解決できないと思うけれど、どうだろう。

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