Opinion : 内向きと外向き (2009/9/28)
 

そもそもの発端は、「どうして、平和主義者ってむやみに攻撃的な態度をとるんだろう ?」という話だった。

全員が全員、そうだとは限らないにしても、異論・反論に対する極端な不寛容、あるいは攻撃的な態度は、どう見ても平和的ではない。話し合いで解決を、と主張する人ほど話が通じない。

そこで最初に考えたのは、「信条」と「信仰」の違いじゃないかなあ、ということだった。


ところが、念のために辞書で調べてみると、「信条」とは「信仰の箇条」とある。これでは同じような意味じゃないの。もっとも、これは狭義の「信条」で、広義の「信条」だと「正しいと信じて実行している事柄」となるらしい。とりあえず、ここでは後者の定義を使うことにして。

誰しも、何かしら信じている考え方、あるいは事柄があって、それは否定しちゃいけない。ただし、当の本人が信じている考え方や事柄に対して、「待てよ ?」と疑問を持つことを許容するか、それとも絶対的なものとして何の疑いもなく受け入れているかで、「信条」と「信仰」の違いが生じるのではないか、と考えてみた。

この考え方を敷衍すると、「信条」は時間が経つにつれて変化する可能性がある。自分のことを振り返ってみても、いろいろな視点からのモノの見方・考え方に接して影響を受けているから、過去と現在ではモノの考え方が違ってきている。多分、今後も同じ。もっとも、人間、年をとると頑固になってくるものではあるけれど。

ところが「信仰」の場合、対象そのものを否定すること自体が排除される。そりゃまあ確かに、宗教で教祖様のお言葉、あるいは教典に疑いを持ったり、否定したりすれば根幹が揺らいでしまうから仕方ない。

そこで問題なのは、世の中には宗教にしていいものと、宗教にしてはいけない (または、宗教にしない方がいい) ものがあること。個人的に護憲派に違和感を感じるのは、もうほとんど宗教の域に達してしまっていると思うから。熱狂的な Mac ユーザーも宗教化していると思うけれど、こっちの方が弊害は少ないかな ?

ともあれ、「信条」ではなくて不可侵の「信仰」になってしまうと、疑うことも否定することも難しくなるから、それが結果的に攻撃的な態度、異論・反論を受け付けない態度につながるのかなあ、と考えてみた。

ところがところがところが。

ここまでの内容なら先週の段階でも書けたのだけれど、よくよく考えてみると、宗教と名の付くものがすべて狂信的なわけでもなければ、排他的なわけでもない。だから、単純に「宗教化」とか「信仰」とかいうだけではまとめられないなあ、というところで行き止まり。


そこで、組織の体質 (教義の内容、あるいは布教の手法なども含む) が、「選民意識」というか、「信じるものだけが救われる、異教徒など滅びてしまえばよい」といった内容になっているかどうかが分かれ目なのかなと考えてみた。

後者の場合、「選ばれし少数派」だけで内向きに固まってしまい、外部に対して背を向ける傾向が強まるんじゃないかと。すると、気に入らない情報は精神的遮断機によって自動的に排除してしまうし、それが結果として異論・反論を受け付けない体質につながるのではないかと。

そういう意味では、あまり仲間が増えてしまうのは好ましくなくて、むしろ「世間からは冷たい目で見られて後ろ指を指されているけれども、実は自分達の方が正しいんだもんね」という図式の方が、組織の維持には都合が良さそう。

そして、「信じる者は救われる」と「信じる者だけが救われる」の間にある微妙な境界を踏み越えて、「信じない者は大災厄によって滅ぼされる」という終末論の領域に達してしまうと、ヤバいんじゃないかと。

どこの誰とはいわないけれど、教義に合わせて自分で大災厄を引き起こそうとした外道もいたなあ。

これ、組織とか宗教団体 (多くの場合、カルト宗教団体か) に限らず、国家でも似たようなところがある。開放的で、さまざまなモノの考え方を許容する体制の国があれば、閉鎖的・独裁的で、指導層が気に入る考え方しか受け入れず、それと相反する情報が国内に入り込まないようにシャットアウトしている国もある。後者の場合、えてして外交面でも攻撃的な態度をとる。

というところまで書いてみたら、少しスッキリしたので、今日はこの辺で。

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