Opinion : "Zero Defect" の異床同夢 (2011/6/20)
 

「同床異夢」という言葉はあるけれど、逆もありそう。というお話。

今に限ったことではないけれども、一方で「○○に不備がある」「△△は欠陥製品だ」と主張する人がいると、他方では「○○に問題はない」「△△は欠陥製品ではない」と反論する人がいる。

まっとうな論拠に基づくものであれば、議論は盛大にやればいいと思うけれども。ただ、この両者は対立しているようでいて、実は根っこのところが似ているかも知れないなあと思った次第。それが「異床同夢」。


どういうことかというと、たとえば「不備」とか「欠陥」の話であれば、一方は「不備や欠陥はあってはならない」という (ときとして、いささか度が過ぎた) 完全主義。他方は、「不備や結果があるといわれてはならない」という (違った意味での) 完全主義ではないのか。という話。

もちろん、動機の部分は正反対で、前者は「物言いをつけるのが目的」、後者は「物言いを叩きのめすのが目的」ということになるのだろうけれど。でも、不備とか欠点とか瑕疵とかいったものの存在を認めない・認めようとしない・認めたがらないという点では、案外と共通しているのではないかなあと。

無論、完全を目指して、完全に一歩でも近付けようと努力することは必要だけれども、なかなかそうはならない。どんなものであれ、要求されている項目をすべて、100% のレベルで達成するのは、現実問題として極めて困難。神様のする仕事ではないから、見落とし、あるいは発想が至らなかった部分が生じるのは避けられない。

利用可能な資源、人材、カネ、あるいはその他の資産、技術の未成熟、といった要因に足を引っ張られることもある。というより、それが大半で、何の制約もない方が珍しい。個人のレベルでも同じことで、たとえば家やクルマや電化製品なんかを買うのに、懐具合などの制約要因を考慮して何らかの妥協をした経験は、たいていの人が持っているのでは ?

さらに、要求されている項目そのものが相反するもので、「あちら立てればこちらが立たず」になることも多い。それで両方の要求項目を 100% のレベルで達成しろといわれても、それは無茶というもの。必然的に、なにがしかのトレードオフを強いられることになる。(はなはだしきは、「安全対策は徹底するべきだが、安全のためのコストは認めない。企業努力でなんとかしろ」なんてムチャクチャをいう人もいる)

それに、特定の分野について突出して高い要求水準を設定した結果として、他の部分にしわ寄せが行って面倒なことになったり、異なる種類の弱点・難点を作ったり、ということもある。それを避けるには、これまたなにがしかの妥協が必要。

そのほか、実現は可能と思われるけれども、時間的に無理がある、なんてこともある。商品でもサービスでも兵器でも、登場するタイミングを逸すると、どんなに優れたものであっても本領を発揮できない。たとえばの話、100% の性能で間に合わないのと、80% の性能で間に合ってそれなりに役立つのと、どっちがマシか。という話。

そういう考え方というか、ある種の妥協というか。それができなくて、「欠陥があってはならない/あるといわれてはならない」「常に 100% の完全を達成していなければならない/達成しているとみなすのが当然」といった考えにかじりつくと、批判にしろ擁護にしろ、"Zero Defect" を求めることが、却って害悪の原因になってしまうのではないか。と。


もっとも、ことに「物言いをつけるのが目的の欠陥説」の場合、欠陥云々は口実に過ぎなくて、「物言いをつけられさえすればネタは何でも良い」ということもあるわけだけれど。いや、むしろそっちの方が多数派かも ?
とはいうものの、その反対側では「物言いに反論できれば何でもあり、我こそ正義なり」ということになりがちで、そこからさらに「贔屓の引き倒し」なんて事態に陥る罠がある。

ともあれ、双方とも 100% でないと納得しないのは似たようなものだから、議論についても 100% の勝利でないと納得できなくて、おそらく永遠にケリがつかない。なんてことになりそう。

ことにネット上でこの手の事態が勃発すると、ネット上でのバトルにありがちなパターンをトレースして、「言葉尻のつつき合いから、やがては当初の話題とまるで異なる方向への大脱線」とか、「どちらか一方が堪えきれずに逆ギレ、それに乗じて他方が勝利宣言」とかいうパターンか。

身も蓋もないことを書いてしまうならば、「100% 完全というのはないのだから、少しでもそれに近付けていく」「すべての分野で完璧に仕上がることは滅多にないのだから、長所もあれば短所もある、という前提の下で長所をいかに活用して、伸ばしていくかを考える」という考え方に切り替えるだけで、大半は解決というか、落としどころになるはずなのだけれど。

と思ってよくよく考えたら、その「落としどころ」という発想が忘れられているから、完全主義者による異床同夢の大バトル、ということになるのか。

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