Opinion : 生贄を求める社会との付き合い方 (2011/6/27)
 

以前、三菱自動車をめぐって問題が発生したときに、「三菱車が炎上」というニュースがやたらと出回ったことがあった。でも、実のところは三菱車ばかりが高い比率で炎上していたという証拠はなくて、要はニュースに取り上げられる比率が違ったというだけの話。他所の業界でも似たような話はある。

そういえば、同じような事件を起こしても、自衛官や警察官だとニュースになりやすいというのもある。無論、高い規範を求められるポジションであるというのは正論だけれども、それだけが理由ではあるまい。

ありていにいえば、「叩きやすいところだと叩かれる」「叩いても文句が出にくいところだと叩かれる」という話。


「世間はサンドバッグを求めている」なんて言い方をしたことがあるけれども、何かの事件・事象をきっかけにして「叩き」を受け止めさせられる羽目になる個人、企業、組織、あるいは国家が、いつの世にもあるよね。と。

たいていの場合、ニュースでワーッと取り上げられて話が盛り上がり、あることないこと書き立てられて、それを批判する「市民運動」がワラワラと出てきて、書店の店頭には「○○の罪」とか「○○の闇」とかいうタイトルの本が平積みになる、といったパターンかと。最近だと、Twitter で批判ツイート、あるいはそれを垂れ流すリツイートの大洪水、というのもある。

だから、同じように「○○」を批判している種類の本でも、たまたまそれが注目されるきっかけになる事件・事象が発生した後で「緊急出版 !」とかいってワラワラと出てきたものは、正直いってスルーした方が良いと思う。Twitter の「大拡散希望」だって似たようなもの。

なんにしろ、一貫性を持って長期的に続けられてきた批判ではなく、むしろ場当たり的に「不満のはけ口」「ある種の生贄」を求めているだけだから、時間が経つといつの間にか下火になってしまうものだし、新たな生贄が見つかれば、そちらに移行してしまうのがお約束。

だから、以前は批判を一身に浴びていたダムや水力発電に対する批判はスーッと消え去ってしまったし、それどころか揚水発電が「電力危機解消の切り札」みたいに持ち上げられている始末。ひところ「脱ダム宣言」が持ち上げられていたけれど、揚水発電をやるには、そのダムが 1 基ではなく 2 基要るんですぞ ? (笑)

たまたま今は太陽光発電や風力発電が持て囃されているけれども、これだって何かちょっと風向き (ネタが風力発電だけに :-) が変われば、「土地ばかり大量に使って効率が悪い」とか「レーダーに変なエコーを出して、あわや飛行機事故に」とか「自然エネルギーの光と影」とかいう調子で叩き記事が氾濫することになるかも知れない。

潮汐発電や波力発電でも、多分、同じこと。だいたい、海が絡む発電施設といえば海辺に設置せざるを得ないのに、そこで「想定外の規模の大津波」がやってきたら、どうするんだろ ?

そういえば、エネルギーの話と関連がないわけでもないところで、アフリカの貧困問題とか「3 秒に 1 人、子供が〜」の話とかいった件は、どうなっちゃったんだろう。あのとき「先進国は債務免除すべき」と吹き上がっていた人がゾロゾロいたけれど、今はどこで何をしているのかと訊いてみたい。

要するに、その場その場の風向きに合わせて生贄を作って叩き、正義の味方気分を満喫しているだけで、終始一貫したフィロソフィーがないから、そういうことになる。叩くには叩く理由が要るから、(本来なら起きてはならないはずの) 深刻な事態になればなるほどハッスルするし、他人の不幸が蜜の味になる、という矛盾も生じる。


では、たまたま自分が属している組織や業界が、何かのきっかけで生贄にされてしまったらどうするか。

「理路整然と反論、あるいは説明して理解を求める」というのは正論だけれども、それで相手が納得してくれるかといえば、怪しい。そもそも、生贄を作ること自体が目的で、理屈や筋道の問題じゃないから。

狡いといわれそうだし、精神的なタフネスが求められる話でもあるけれど、ちょいと首をすくめて黙ってじっとやり過ごし、やるべきことをキチンとやりながら (これ重要) 嵐が過ぎ去るのを待つのが、現実的な対応なのかも知れない。

そういう意味では、叩かれても何をされても、長期間にわたってコツコツと実績を積み上げてきた自衛隊は凄いと思う。東北地方太平洋沖地震の後の救援活動で評価が跳ね上がったという点で、在日米軍にも同じことがいえるけれど。平時にはあまり大切にされず、有事になると急に頼りにされるのが軍人の宿命とはいえ、ねぇ…

逆に、何かのきっかけで批判ムードが雲散霧消したり、追い風が吹いたりするようになったとしても、そこで調子に乗ってしまわないように注意する必要もある。なにしろ世間の空気というやつは移ろいやすいものだから、また何かのきっかけで逆風に転じる可能性がある。そうなると、(もしも調子に乗りすぎていたときには) 何倍にもなって「お返し」が来るだろうから。

無理筋の批判の声が強すぎるからといって、そこでヤケッパチに、あるいは自暴自棄になってしまうのは逆効果。たとえばの話、「無理解や根拠なき批判に抗議して自殺」なんてやったところで、同情して考え方を変えてくれる人がいるかどうか怪しい。

それに、声が大きい人がいるからといって、それが世間の主流とは限らないし、むしろそうではないことの方が多いと思う。裏返せば、主流になりきれないから余計に大騒ぎして煽り立てる、という側面もあるだろうし。標的になった側がそれに釣られてしまったら、それこそ方向性を誤って自滅しかねない。

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