Opinion : ポジティブ批判とネガティブ批判 (2014/12/15)
 

取材して記事を書いた後で、「広報チェック」が入ることがある。部分的な修正で済むこともあれば、盛大に直されることもあるし、「内容が詳しすぎて対応不能」と先方がサジを投げることもある !?

基本的には、機微に触れるような話は削られるのだけれど、ときには「なんでこれが削られるのか」という目に遭うことも起こり得る。そのせいもあって、広報チェックのことを「検閲」みたいにみなす人もいる。

先方も、取材させるからにはイメージアップにつながるような記事が出てくれないと困る (ことが多い) わけで、そこは書く側とのせめぎ合い。ただ、そこには微妙な境界線があるのではないかなあ、というのが今回のお題。

ちなみに、ここまでは「広報チェック」を引き合いに出してきたけれど、それに限った話ではない。つまり「社是あるいは社の方針」に反するとか、個人の blog レベルでも「読者の反応を気にするが故の自主規制」なんていうのはありそう。


「広報チェック = 検閲」みたいな見方をする人にいわせると、「批判的なことを書けなくなる」という話になる。そこは、「広報チェック」だけでなく、「社内チェック」や「自主規制」でも似たようなもの。ただし、その「批判的なこと」が、実は複数あるのではないか。というのが今回の本題。

批判的なことを書く場合でも、「なんとか良くしてもらいたいから」といって、ポジティブな立ち位置に基づく批判をするケースがあり得る。仮に「ポジティブ系の批判」と呼ぶことにする。

一方では、「あら探しをすることこそが権力の監視である」みたいなノリの、批判そのものが目的と化しているケースもあり得る。仮に「ネガティブ系の批判」と呼ぶことにする。ネット上でよく見かける「○○叩き」も同類か。

個人的には最近、「首相や閣僚の失言」が新聞やテレビであげつらわれるケースの多くについて、「ネガティブ系」に属するのではないかと思うようになった。失言をあげつらって「大臣の首を獲る」ことだけが目的と化しているように思えてならないから。

どちらにしても、字面にしてしまえば同じように見える可能性があるので、書かれる側からすれば、一律に抑え込みたいと考えてしまうかも知れない。しかし書き手の立場からすれば、ポジティブ系の批判まで抑え込むことは、却って害毒を垂れ流す結果になるのでは。

ただし難しいのは、字面だけだと「ポジティブ系」と「ネガティブ系」の区別はつけにくいこと。「こうすればもっと良くなるのに」みたいなところまで踏み込んでいるとか、あるいは「評価すべきところは評価する」という姿勢があれば、「これはポジティブ系の批判だな」と判断できそうではあるけれど

そうなると、単一の記事や文章だけで判断するのは難しくて、日頃の書きっぷりに関するデータを蓄積しておいて、それに基づいて「ポジティブ系」と「ネガティブ系」の区別をつけないといけないのかもしれない。

あと、ポジティブなことと批判的なことの両方を書く人なのか、朝から晩まで寝ても覚めても批判的なことを書くために全エネルギーをつぎ込んでいるような人なのか、という識別ポイントもありそう。


とかなんとかいう状況の中で、書き手としてもなにがしかの自衛策というか、対抗策を講じることがある。もちろん、中には迎合オンリーの提灯持ち・太鼓持ちと化するケースもありそうだけれど、まあそれはそれ。

たとえば、「○○はチェックがうるさいから、ハナから○○の記事は書かない」という人がいる。あるいは、ストレートに、露骨に書くとチェックが入るからといって、「行間に書く」「婉曲話法で書く」人もいる。

ただし後者には欠点があって、読み手がそれを分かっていて読まないと、ただスルーされてしまって終わりだ。だいぶ時間が経過してから「ああ、アレはこういう意味だったのか !」となるのはありがち。そう考えると、この手は空振りのリスクが大きくて使いづらい。

なんにしても、「批判精神を失うな」「批判を受け入れる度量を持て」というのは簡単だけれど、同時に「受け入れられるような批判の仕方」ということも考える必要はあるのかも知れない。なんて書くと「それ自体が迎合だ !」って吹き上がる人がいそうではあるけれど。

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