Opinion : 報道の自殺 (2015/8/24)
 

なんだか最近、事件・事故の類が起きると、テレビ局や新聞社が Twitter を漁り、現場にいる人に情報や写真の提供を求める事案が相次いでいると聞く。幸か不幸か、自分はそういう事件・事故の現場に居合わせたことがなくて、情報や写真の提供を求められこともなかったけれど。

新聞にしろテレビにしろ「他紙・他局に抜かれる」のが最大の恥という意識はありそうだ。趣味系専門誌でも、同じ場所で同じモノを取材していて「他誌が書いていたことを、うちが書いていない」事態は避けたいと思うし。だから、なんとかして現場に関する情報や「画」を得たいと思うのは、分からないでもない。

しかし一方で、ありとあらゆる事件・事故に備えて常に人を配置して置くわけにもいかないのだから、一般市民からの情報提供に頼る部分が出てくるのは仕方ない。実際、新聞社だったかテレビ局だったか、「何かニュースがあったら知らせてください」といって電話番号を出しておく事例はあったと記憶しているし。

ただ、それが近年、(特に Twitter の利用が広まったせいで) 安直な方向に流れすぎていやしませんか、とはいいたい。


もちろん、現場からの速報がまったくなくていい、とはいわない。でも、断片的な速報をパラパラと流すとか、取材していて新ネタを仕入れる度にとりあえず「○○の事故に関して、△△という事態があったことが分かった」と小間切れにして流すだけでいいのか。

ましてや、Twitter で流れている関連ツイートを列挙して一丁上がり、にしてしまっていいのか。それでは「NAVER まとめ」や「Togetter」で「まとめ」を作るのと変わらない。それだけで終わってしまって「報道のプロ」を自認したり「社会の木鐸」を標榜してみたり「報道の使命」を云々したりするのでは、それはどうかと思う。

以前に、「市民記者」と「報道機関」の違いについて「取材力が最大の差」ということを書いた。しかし、ことに Twitter 頼みになると、その「取材力」を自ら放棄してしまうことになって、「じゃあ、報道機関のレーゾン デートルってなんなの ?」ということになりかねない。そういう自覚があるんだろうか。

報道機関でないとできないこと。それは、取材力を駆使して埋もれている情報を拾い上げて、それらを整理・分析して、できるだけ多くの人に分かる形にまとめて流すこと。その過程で、主観がむやみに入り込まないようにするのもプロとしての務め (ゼロにしろというのは難しいが)。

それだけでも結構なリソースを使うのだから、たとえばの話、事件や事故の関係者が小学生時代に書いた文集だの卒業アルバムだのの入手に奔走する、時間も余裕もないはずである。

そういえば、讀賣の Web 版で、「北斗星」廃止の裏にある事情について解説する連載記事があった。単に詠嘆調で別れを惜しんだり、駅の大騒ぎぶりを流したりするだけならサルでもできる。こういう解説をやってこそ報道である。

ところが、どこの業界にも前動続行というのはあるわけで、新聞の記事やテレビのニュース番組を見ればお分かりの通り、「こういう事件ならこういう内容にする・こういう話を流す」といった類のテンプレのようなものがある。そこから外れると先輩に怒られるので、結果的に前動続行になるんだろうか。

Twitter を漁って、現場の写真、あるいは現場の状況に関するツイートを探すのは、「他紙・他局に抜かれないようにする」というテンプレに乗っかった前動続行の現れ、と考えれば納得がいくけれども、誰か「それでいいのか ?」と疑問を呈している人はいないんだろうか。

と思ったら。ツイートの内容をコピペしただけで記事をひとつこしらえる、という安直なことをやらかしている人までいる様子。たまたま目についた事例がひとつあったけれど、探せば他にもいろいろありそうだ。そういうのは「ハ○ィン○ンポ○ト」じゃなくて「Togetter」でやるべきである。


報道機関が単なる「まとめサイト」になってしまったのでは、それは報道の自殺である。自ら現場に行ってモノや状況を見て、それで初めて分かることは必ずある。これは自分が実際に、いろいろな現場に行ってみて痛感していること。

「ググる」だけでは、分かった気にはなっても限度がある。それよりも「ググられる」ぐらいのモノを自分が生み出さなければ、「伝える立場」としての使命を果たしたことにならない。

その場その場で「抜かれない」「画を手に入れる」ことばかり考えていて、それで易きに流れてばかりいると、後になって人材・ノウハウの不足に泣かされることになりはしないか。

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