Opinion : スポーツ嫌いを生み出す温床 (2017/3/13)
 

いま、これを安比高原から東京に戻る途中の新幹線の車中で書いている。このサイトや別館の blog を御覧いただいている方は御存知の通り、(以前みたいなハイペースの出動ではないものの) スキー好きである。

よく口癖のようにいっているのは「およそスポーツと名の付くもので、唯一、世間並みにできるのがスキー」。何をもって「世間並み」と評価するのかというツッコミは無しで。


実のところ、学校の体育の授業で楽しい思いをしたことがない。何も体育の授業に限ったことではなかろうけれど、上手にできれば、あるいはなにかしらの手応えを感じられれば、楽しいと感じるようになるだろう。でも、上手にできなかったり、手応えを感じられなかったりすれば、楽しくなくなる。

ただ、学校の体育の授業で始末が悪いのは、「得意な生徒」と「得意でない生徒」の間に明確な格差ができること (少なくとも意識の上では)。しかも「成績」がつけられる。そして、往々にして学校における人気者というのは運動部で主役級のポジションにいる生徒じゃなかろうか。

育った環境、あるいは持って生まれたあれやこれやの影響もあるから、誰もが同じ種目を同じようにやれるとは限らないはず。でも、学校では「成績」をつけられて「優等生」と「劣等生」に分けられてしまう。

もっとも学校の場合、これは、ある程度はマネージメントというか、教師のやり方次第のところもあると思われる。要するに、運動ができる生徒ばかり持ち上げるかどうかという話で。

理想論をいえば、運動も座学 (っていうのか ?) もひっくるめて、「あれが得意な生徒もいる、これが得意な生徒もいる、どちらも個性であり取り柄である」と持って行ければいいのだろうけれど、往々にして、そうならない。

学校という狭い社会の中でも、あるいは世間一般のイメージとしても、「スポーツマン」というと肯定的にとられることが多いけれど、それと比べると、「インドア派」ってネガティブな受け止められ方をしやすくはないか。

ことに学校の場合、生徒ひとりひとりに最適化した教え方をする、あるいは楽しみを知ってもらうとかいうのは、実現したくても無理がありそう。ひとクラスに数十人の生徒がいて、それぞれに最適化しようといってもリソースがないもの。

だから、学校の体育の授業を通じて「みんながそれぞれ好きなスポーツを見つける」という話に持って行けるかというと、それは期待できないだろうし、してもいない。

ましてや、脳味噌が筋肉でできるような体育教師を引き当ててしまうと、それはもう、できない生徒にとってはスポーツ嫌い養成セットでしかない。(誰も彼もが脳筋だというつもりではないけれど。為念)


自分がいわゆる運動音痴に属した一因は、もともとどちらかというとインドア派だったせいだろうなぁと。

それがたまたま「師」に恵まれたというか、いい具合に沼に落としてくれた方に巡り会えたおかげで、唯一、スキーという例外ができた。ただしそこには、上達という手応えを感じられたから、という重大な要因がある。教え手と自分の努力の相乗効果で。

それに加えて、雪山の景色がいいとかなんとか、付随的な楽しみがいろいろくっついて来た事情もある。まぁ、それはそれとして。

と、ここまで書いたところで気がついた。スキーって基本的には地球の引力に依存する部分があるので、どう見ても「筋肉質」とは程遠いスレンダー体型でも「なんとかなる」のである。これは重大なファクターだったかも知れない (苦笑)

もちろん、クロスカントリーに出るとか、コブ斜面に突撃するとか、レースや技術選に出るとかいうことになれば話は別。でも、整地を普通に滑っている分には、バランス感覚や下半身の微妙な動かし方さえ押さえていればなんとかなるし、これなら自分でも対応可能。

自分にとってのスキーがそうだったように、うまい具合に「楽しみ」に巡り会えたり、手応えを感じたりできれば、スポーツ嫌いでも豹変するかも知れない。でも、国が音頭をとって「一億総スポーツ好き」みたいな方向に持って行こうとしても、それは無理があるんじゃないかなぁ。

ただ、出来の良し悪しで「成績」がつけられないようになってから、何か「これなら楽しんでやれる」というスポーツに巡り会ってくれたら、それはそれで世界が広がって楽しいんじゃないかしら。というところで、今回はこの辺で。

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