Opinion : 伝統の棍棒 (2017/8/7)
 

海上自衛隊を指して「伝統墨守・唯我独尊」という言葉が出てくることが、ままある。実際のところ、これがどこまで本当なのかは知らない。ただ、その話の真贋を論じるのは本題ではない。

何か変革を起こそうとしたとき、あるいはそれと逆にブレーキをかけようとしたときに、そうした動きに対して反対する人が出てくる。それはいい。ただ、反対する理由が問題だと思う。

ちゃんとした理由があって「だから反対」というのはいい。でも、理由になっていない理由を付けて反対するケースもある。そこで出てくるマジックワードのひとつが、「伝統」というやつ。

つまり、「そういう変化を起こすのは伝統に反する」とか、「ここで○○をすることこそ、赫々たる伝統を受け継ぐ行為であるから、しないのは怪しからん」とかいう類の反対の仕方。

理由どころか伝統とかどうとかいう言葉すら出てこなくて、ただ単に「反対だから反対」という人も、世の中には存在する。けれども、それはまあ、論外。

そういえば、会社で事業内容を見直したり、事業所を統廃合しようとしたりといった場面でも、似たような話はありそう。「我が社の伝統に反する」とか「創業の地を閉鎖するとは怪しからん」とか「我が社のルーツであるところの事業を止めるのか」とかなんとか。


その「伝統だから (賛成 | 反対)」の何が問題なのかというと、「理由が理由になっていない」ということに尽きる。

念のために書いておくと、「この伝統は、こういう理由に基づいて続いてきたものであるから維持されなければならない」であれば、話は違ってくる。それは、ちゃんと理由が付いているから。

もちろん、「理由付きの伝統」なら無条件に従わなければならないかといえば、そんなことはないわけだけど。ただ、理由が付いているのであれば、それに対して反論や説得をする余地はある。

でも、単に「伝統」の 2 文字を振りかざすだけだと、反論や説得の余地がない。その場合の「伝統」という言葉は、単に相手を強制的に屈服させるための、いわば「水戸黄門の印籠」みたいなものとして機能しているだけ。

あと、「伝統」の 2 文字を使うと、過去を美化して不可侵の御神体にしてしまう効果もありそう。

しかし実際には、「伝統」だったはずのものが大して長い歴史を持ち合わせていなかったり、「護るべき伝統」という割には誤謬をいろいろ抱えていたり、ということもある。

問題は、歴史が浅いことでも誤謬があったことでもなくて、それを「伝統」の二文字が隠蔽してしまい、いかにも不可侵の正義であるかのように圧迫してしまうこと。


んー、なんか「どこかで聞いた話だな」と思ったら。ここまで書いたところで気付いた。

しばらく前に書いた「撮り鉄業界の硬直化」にも通じる話じゃないだろうか。「伝統」という言葉を使うかどうかはともかく、「これがお約束」「これが V 写真」という話が一人歩きして、そこからの逸脱を許さない空気のようなものがある点は似てる。

というか、「定式」を振り回す人と、それに縛られて身動きがとれなくなってしまった人がいる、か。とどのつまり「これは伝統だから逸脱は認めない」と同じなのだ。

そういうことばかりやっていると、自然と前動続行・前例踏襲になって、「これまで、こうやってたんだから、今後も同じ」「過去にこの方法で成功していたので、今後も同じ」となり、自己変革ができなくなる。

もしも変革を試みたとしても、そこで失敗すれば「伝統の棍棒」でボコボコに叩かれて、ますます自縄自縛になる。それで状況の変化に柔軟に対応できなくなれば、最後は没落してしまう。

つまり「理由なき伝統の棍棒は、個人も組織も国家もつぶすんじゃないの」。というところで、今回はこの辺で。

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