Opinion : 早く帰れというだけでは働き方改革ではない (2017/10/9)
 

なんだか最近、「働き方改革」といっては「早く帰る」話ばかりしている向きがいるみたい。それは本当に働き方改革なんだろうか。「早く帰れ」というだけではダメで、その原因を取り除かないことには、早く帰ろうとしても無理がある。

早く帰れないのは、それなりの理由があるはず。そもそも仕事が過重負担だとか、仕事の進め方に問題があるとか、帰ろうと思えば帰れるのだけどそうさせない何かがあるとか。


うちみたいな個人事業主の場合、メーカーにたとえていえば、一人で研究開発と工場と総務と経理と営業を兼任しているようなもの。もちろん、取材に行ったり資料を読んだりした上で原稿を生み出さないことには、インカムにならない。

となると、そういう部分の作業に専念できる時間を確保するために、それ以外の作業はできるだけ合理化・省力化する必要が出てくる。そこで「同じことを三回繰り返したら自動化を考える」の法則が出てくる。

もっとも、実際にはそんな、なんでもかんでも自動化できるわけではないけれど、省力化・合理化の工夫は常に考えている。幸い、うちには「合理化反対 !」といってシュプレヒコールを上げる人はいない。

もちろん、本来業務の部分でも、生産性を高めるとか、段取りを改善するとかいうことは常に考えている。というか、お仕事の依頼を頂戴すると、まず全体の見通しを立てて段取りを考えてから動き始める。後で手戻りが発生して余分な手間がかかったり、時間を冗費したりといった事態は避けたい。

つまりは、「個人の生産性や効率を高める」「無駄を省く」ことが結果として、うちの働き方改革であるということ。それで時間的・気分的な余裕ができれば、遊ぶ時間ができるとか、寝る時間が増えるとか (3 年前の入院騒ぎ以来、これは重要)、仕事のキャパを増やせるとかいった利点につながる。

本来、「働き方改革」って、そういう話なんじゃないんだろうか。個人の生産性、組織としての生産性を高めて、より少ない手間と時間で同じアウトプットを出せるようにする。最初に段取りと見通しをきちんと考えることで、手戻りを減らして気分よく仕事をできるようにする。結果として、仕事を早く切り上げられるようになる。

そこでは、本来業務に専念できる環境を作る、という話だって大きく関わってくる。たとえば、研究者が研究以外のあれやこれやに忙殺されてたら、結果を出そうとしても難しいよね ?

そういう話があって初めて、「早く帰ろう」になるんじゃないだろうか。ただ単に「早く帰れ」と号令をかけるだけでは、そんなもん働き方改革でも何でもない。

あと、「忙しそうにしているかどうか」「長時間に渡って仕事をしているかどうか」で評価するのでは、「早く帰れ」は成り立たない。アウトプットや生産性で評価しないと始まらない。そうなると、人事評価のやり方から関わってくる。

ただし、この「アウトプットで評価」を勘違いして、表に出る数字だけで見るようになると、今度は不正や改竄といった問題を生む温床になるので注意が必要。そういう事件が起きると、対策のために規制が厳しくなったり、「○○委員会」がやたらと増えたり、書類仕事が増えたりする。

そうそう。その書類仕事だって、合理化・効率化することを考えてみたってバチは当たるまい。


「メールの冒頭に書く宛先は役職順に」とか、さらにひどいのになると「DHCP が割り当てる IP アドレスは役職順に」とか。そんなことにこだわってばかりいたら、それこそ無駄な手間と時間を使うことになって生産性が落ちる。

とどのつまり、「働き方改革」とは「意識改革」であり「組織改革」であり「仕事のやり方改革」でなければならない。という当たり前の話を、どうしてわざわざ書かないとイカンのだ…

なにもクサい臭いじゃなくても (古)、元から絶たなければなくならないのである。

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