Opinion : 完全主義も良し悪し (2019/5/6)
 

しばらく前に「特定の生地だけ畳めなかったために世に出損なった、衣類折り畳みメカ」という話が流れてきた。それに対して某知人が「用途を限定してでも、まずは世に出せばよかったのに」という趣旨のことをいっていた。

うちのクローゼットの中身を見る限り、自分はお洋服を畳むのが下手である。丁寧に畳まないといけないような立派な服がどれだけあるのか、という話はともかく、下手なものは下手である。服屋の店員さんとは訳が違う。

それを自動的にうまいことやってくれるロボットがあれば「スゲー」と思うけれど、個人レベルで買うものではないのかも知れない。

ただ、大量の衣類ないしはそれに類するものを効率的に畳まないといけない、という場面は確実にある。某知人が持ち出したのは宿泊施設だったけど、医療や介護の現場も同じようなニーズはないだろうか。

個人的には、イージス戦闘システムについて「小さく作って、大きく育てた」点を評価している。もちろん、それは比較の問題であって、絶対的に見れば巨大かつ複雑なシステムではあるのだけど。

ただ、いきなり究極の完成品を目指したというよりも、段階的に完成度を上げつつ、バグをつぶしつつ、新しい技術を取り込みつつ、といったプロセスを重ねていくうちに、当初のベースライン 0 とは似ても似つかぬパフォーマンスを発揮するようになった、という事実はある。


この国に限ったことではないかも知れないけれど、「完全主義者」が評価される社会というものがある。それの関連で、「いきなり究極の最終完成品を世に出さないとぶっ叩く」というマインド セットの人がいる。

そりゃもちろん、未完成品より完成品の方がいいに決まっているのだが、常に完全無欠な最終完成品を一発で世に出せるものなのか、というと疑問がある。それは手抜きをしているという意味ではなくて。

なんでそう思うかといえば、まず「完全無欠」を達成するのは簡単ではない、という理由。もうひとつは、「最終完成品」というゴールが明確にならない、という理由。

何かを作ってテストした経験がある人なら、「完全無欠」を達成するのは簡単ではない、という話は理解しやすいと思われる。設計時点で想定していなかった使われ方や運用環境に直面して、トラブルを出してしまったために手直しを求められた、なんて話はたくさんある。

ことにソフトウェア制御のものは、そういう傾向が強い。いまさら書くまでもないことだけれども。

では、ゴールの話はどうか。すでに「これは、こういう機能を備えた、こういう製品である」というカタチが明確になっている製品ならまだしも、そうでない製品ではゴールが明確にならない。

これまで世の中に存在していなかった新種の製品、あるいはサービスならなおのこと。新種ということは、それで何ができるのか、どういう使われ方をするのか、というところが不明確ということ。それでは最終完成形も何もあったもんじゃない。

だから、最初から「何でもできます」と大風呂敷を広げないで、「小さく作って、フィードバックを得て、段階的改良によって大きく育てる」というアプローチにしないと、途中で死んでしまう可能性が高くなりはしないだろうかと。

これは、開発して売る側だけでなく、そこに出資する側についても、それを外から眺めるメディアについてもいえること。

また、ある時点では不可能だったことが、時代を経たら状況の変化や新技術の開発によって可能になる事例も、また「最終完成形」を変える方向につながる。ある時点での最終完成形が、未来永劫に最終完成形ではないということ。

そんな、段階的な積み上げ改良によって最終完成形の先にまで成長していっている典型例が、先にも言及したイージス戦闘システムであったり、N700 一族であったりすると思う。


と、そんなこんなの事情があるのに、みんな無視して「不具合があったから (欠陥品だ | 未完成品だ)」と騒ぎ立てる人って、どうも信頼も信用もできないのである。おまえら要するに正義の味方になって騒ぎたいだけだろと。

ついでにイヤミを書けば、そういう人に限って、自分やお仲間の瑕疵に対しては寛容なんじゃないだろうか。逆に、自分が敵対している相手、自分が嫌っている相手の瑕疵に対しては大騒ぎする。要するに、嫌いな相手を叩く材料が欲しいだけ。

だいぶ前に「『完全無欠』といって許されるのはロックンローラーだけ」なんていう、お歳が知れることを書いた記憶がある。「完全主義」「完全無欠の追求」も程度問題じゃないか ? ということ。その辺の考え方は今でも変わっていないので、こんなことを書いてみた。

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