Opinion : どう見てもおかしな事故再発防止論 (2019/5/27)
 

大津園児死傷事故、保育園会見マスコミ批判への見解 (京都新聞)

読んでみたら、ただの自己弁護・自己正当化だった。特に「これはひどい」と思ったところを引用する。

遺族や被害者を取材するのも「再発防止」が大きな目的です。当事者でなければ語り得ない思いや犠牲者の人となりを伝えることは、事件・事故の悲しみや理不尽さを社会で共有し、再発防止に向けた機運を高めることにつながります。


「一見すると、筋が通ったことをいっているように見える」という人がいるかも知れない。しかし、この言い分は煎じ詰めると、単なる精神論に落とし込んで終わりにしてしまう危険性につながるだけ。

とりあえず先方の立場に立ってみて、「事故が起きれば、当事者は悲しみや理不尽さに見舞われる。それを防ごうとするから注意するようになって、事故が起きなくなる」という理屈なんだろうか、と考えてみた。だ・が・し・か・し。

世の中のすべての事故や事件が、故意あるいは不注意に起因するのであれば、そういう理屈が成り立つ部分はあるかも知れないが、実際には違う。それに、「悲しみや理不尽さを引き起こそうとして事故を起こす人」は、普通はいない (絶対にいないとは断言できないが、多数派でもあるまい)。

無論、故意や不注意に起因する事故はある。しかし、故意に事故を起こすような人はそもそも「悲しみや理不尽さ」はブレーキになりづらいだろう。

そしてなによりも、故意や不注意によらない、当事者にはどうにもならない事情で事故になってしまう事例もある (例 : 日航ジャンボ機墜落事故)。そんな事故を「悲しみや理不尽さの共有」で食い止められると考える方がどうかしている。

特に航空事故や鉄道事故において顕著な傾向で、おそらくは他の分野にもいえる話なのだけど。何か事故が起きたときに、原因を解明して対策を割り出し、適用する。そのプロセスの繰り返しで、安全性が向上してきている。

最初から、安全性を考慮した設計をしていても、想定外の事態、想定以上の悪条件の積み重なりによって事故になってしまうことはある。そういう経験が新たな想定につながり、同じ事態の再発を防ぐ方向に働く。安全対策の歴史って、そういうことではないのだろうか ?

「悲しみや理不尽さを共有することで事故の再発を防止する」という論は、そうした安全性向上に関わっている人達を愚弄している、とはいえまいか。それに、本来ならエンジニアリングやサイエンスの領域に属する話を、エモーショナルな話に落とし込むことは、往々にして「たるんでる」等の吊し上げを引き起こす。

すると、責任者を引っ張り出して、頭を下げた映像を確保するだけで満足してしまう事態につながりはしないか。責任者が頭を下げて事故がなくなるなら、事故調査委員会は要らない。何のために事故調査委員会があると思っているのか。

先日、737MAX の件に関連して「ボーイングを吊し上げるだけで問題が解決するかといえば、それには『ノー』という」と書いたけれども、そう書いた背後には上のような考えがあったから。


「悲しみや理不尽さの共有」を自己正当化の理由に挙げる背後には、例の「社会部マインド」があるのではないかと思われる。しかし実際のところ、「社会部マインド」は事故の原因解明にも再発防止にも、まったく寄与しない。

しばらく前に、どこかの新聞社のえらい人が「ジャーナリズムの危機」なんてことを書いていたけれども (これはこれで別の理由で叩かれてたような)。「ジャーナリズムの危機」があるとすれば、それは今のジャーナリズムのありようが問われているということでは ? その現れのひとつが、事故報道のあり方では ?

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