Opinion : "正義の棒" の悪循環 (2019/7/8)
 

"正義の棒" という言葉はいま思いついたんだけど、意味するところは容易に理解していただけると思う。「表立って逆らうのが難しい種類の正義 (を振りかざす人)」ぐらいの意味。

分かりやすいところだと「男女平等」とか「差別的表現」の類。もちろん、大事なことですよ。大事なのは分かってるんだけど、いったん「男女平等の推進」とか「差別的表現の排除」とかいう潮流ができたときに、それに乗っかって余計なエスカレートをする人が出てくる。

そこでありがちなのは「敵の敵は味方」ならぬ「敵を敵視しない奴もまた敵」という理論。でも、これをやるとたいていの場合、サイレント マジョリティや穏健派から避けられるようになる。

そして過激化・尖鋭化して際限がなくなったときに、表向きは「正義」なものだから、誰も止められなくなる。そしてどんどん収拾がつかない方向に暴走してしまう。そんなことになりゃあせんか、という懸念を抱きたくなる話がいろいろ。


たとえばハイヒールの話。自分でも 3-4cm ぐらいのヒールならちゃんと歩けると思うけれど (は ?)、7cm とか 10cm とかいうヒールで、よく歩いたり立ったりしていられるもんだ、すげー… と思ってしまう。

だから、仕事の現場、ことに立ち仕事の多い現場で「ヒールの高い靴を強制するのは勘弁して」となるのは分かる。みるからに足の爪先寄りに荷重が集中して、痛い思いをしそうだけど、実際のところはどうなんだろ。

ただ、そこで「ヒールの高い靴そのものを敵視する」「ヒールの高い靴を履く人を敵視する」という方向にエスカレートしたら、どうなんだろう ? それは行き過ぎではないの ? (敵視しているデバイスを身につけるヤツも敵だ、というロジックなんだろか)

「ヒールの高い靴を履かない自由」とともに「ヒールの高い靴を履く自由」もあっていいと思うのだけど。(もっとも、こういうことをいうと「本人の自発的意思です」という建前の下で実質的な強制をやる輩が、きっと出てくるんだよなー)

「禁煙」にも同じことがいえる。自分はタバコの煙が苦手だけど、吸いたい人が吸う自由はあると思ってる。無論、平和共存のツールとしての分煙が前提ではあるけれど。

"正義の棒" が暴走したときに何が怖いかというと。溜まりに溜まった鬱憤や反発が原因で、ある日、何かのきっかけで、利息をつけた反発がドカンと返ってくる可能性。もしもそうなると、元の状態より悪いところまで逆噴射してしまうことになかねない。

昨今の一部方面向きの対外世論には、そういう気配があると思う。これ、前に書いたような気がする「ポリコレ疲れ」にも通じる話。

「○○は弱者だから大切にしないと」「○○は気の毒だから保護しないと」の類。それ自体は正しいことであっても、それがある種の「御印籠」になって際限なく突っ走ると、どこかで無意識のうちにレッドラインを超えて、結果として「誤印籠」になってしまう。

「正しい」と「正しくない」の、いちゼロ思考、それと「正しいことだから何をやっても許される」というエスカレーション。これって悪魔の相乗効果じゃなかろうか。実際には「正しい」と「正しくない」の間にグレーゾーン事態があって、しかもその線引きは人や場面によって違うのが普通じゃないんだろうか。


分かりやすい "正義の棒" というと「争いごとは良くない」というのがある。まあ、基本的にはその通りなのだけど、これも往々にして歯止めが効かなくなる。

その一例かも知れないと思ったのが、会社や役所のクレーマー対応。「理不尽なクレームだ」と思っても、「ここで争うのは良くない」「事を荒立てないで穏便に済ませる方がいい」と考えて、クレーマーに屈してしまう。

するとたいていの場合、そのしわ寄せは現場の社員や職員に行って、意に反して頭を下げさせられるようなことが起きる。それが積もりに積もると、社員や職員の士気が下がり、定着率が下がる。

その結果として仕事の質が下がれば、それがまた新たなクレーム (または、クレーマーが付け入る隙) を生む原因になるかも知れない。悪循環である。

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