Opinion : 昨今なりのニュースとの付き合い方 (2019/7/15)
 

新聞にもその気があるし、テレビは尚更だけれど、ことに社会部が絡むニュースだと「感動の人間ドラマ」にこだわる場面が見られる。

だからなのか、誰かがノーベル賞を受賞した、なんてニュースがあると、本題そっちのけで「人間ドラマ」の面にばかりこだわる、いささか失笑気味の報道が常態化してしまう。当事者はそれが普通である、当然である、と思っているのかも知れないけれど。

それの何がまずいと思うのか。読者や視聴者の感情を揺さぶることにばかり注力してしまうのは、果たしていいことなんだろうか、という疑問がある。理屈で納得しなければならない場面で、感情を優先させた結果として、暴発して収拾がつかなくなったらどうするの。


なんてことを書くと「人間は理屈だけで動くものではないのだから、感情にも配慮しなければならないのは当然」という反論はあり得そう。実際、そういう一面があることは否定しがたいけれども、それが当然だと思っちゃっていいのか。

感情を揺さぶられて、それに乗っかって行動したり、意思決定したりした結果として、悪い結果を呼び込んでしまったり、世論操作や心理戦にコロリと引っかかったり、という事態にならないとも限らないんである。

いや、すでにそういう事態は起きているといえるのではないか。心理戦のプロから見れば、「感情を揺さぶるフェイクニュース」を投下するのは、さして難しいことではあるまい。

もともと人間、自分が見たいと思っているものは見たくなるものだし、見たくないと思っているものは避けようとする。つまらないものよりも楽しい物、平凡なものよりもワクワク・ドキドキするものに惹かれる。そういう傾向はすなわち、心理戦のプロがつけ込む隙になる。

だから、「これは素晴らしい !」とか「これは怪しからん !」など、感情を突き動かされるような記事あるいはニュースに接したときこそ「ちょっと待て」とブレーキをかける必要がある。ひでえ世の中になったものだと思うけれど。

その場で反射的に拡散したり、悪態をついたり、賛同したりするのは、マズいんじゃないかと。ベクトルがどの方向を向いているものであれ、それは同じ。感情が揺さぶられそうになったり、まず PC やスマホの画面からいったん離れてお茶でも飲もうよと。

今は固定回線でも移動体でも常時接続が常態みたいなもんだから、昔みたいに「回線切って〜」とはいいづらい。それで ↑ のような書き方にしてみた。


本物のフェイクニュース (なんだそれ) は、一見したところではフェイクニュースに見えない。スプウソニクの「ドイツが F-35 の調達を中止」みたいに、半分は事実、半分はデタラメということもある。

そんな調子だから、「自分はフェイクニュースになんか引っかからない」と思っている人ほど、きっと引っかかる。パクツイの類に引っかかるのも、たぶん似ている。

内容もさることながら、それが自分にどういう作用を及ぼしているか、という観点から見るのも、ひとつの考え方じゃなかろうかと思って、これを書いてみた。無論、万能の解決策ではないけれども。

ただ、ついでに、怒りにまかせた暴言や毒吐きを止める役にも立つ。かもしれない。

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