Opinion : スポーツ嫌いの一因 (2021/4/5)
 

先週に降ってきた、「スポーツ庁が『スポーツ嫌いな中学生を五割減らす』という目標を掲げた」とのニュース。思わず吹き出しそうになった。

自分は「スポーツと名の付くもので、唯一、世間並みにできるのがスキー」と公言している。一応、SAJ の 2 級をとるぐらいまでは行ってるから、世間並みといっていいんじゃないかなー、と勝手に決めている。

そのスキーを覚えたのは三十代も半ばぐらいまで来てからの話。「学校の授業じゃなかったから、楽しみつつ上達できた」と、本人は大真面目に思っている。


その昔、フィルムの CM で「美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに」というのがあったけれど、学校の体育の授業だと、これが「できる人はより楽しめるけれど、できない人はドン底に落ちる」になりがち。

では、できないからといってなにかしら、引っ張り上げるための指導があるかというと… 実のところ、「努力と根性」の精神主義が跋扈している業界だからか、論理的・科学的指導を受けた記憶は、ついぞ存在しない。

でもって、日本の学校社会は、運動が得意だと評価が上がる傾向がある。するとどうなるかといえば、体育の授業を通じて「階層分け」ができてしまう。部活動にしても、運動部の方が文化部よりも幅をきかせていることが多いのでは ?

もっとも、その運動部の間でもステータスの差はあって、たぶん野球部が最上位にいる。その点、野球部がない高校に通うと、ことに夏場は平和でいい。

そんなこんなの経験のせいで、学校の体育の授業が「スポーツ好き」を増やす役に立ってるかというと、まことに懐疑的になってしまう。

もちろん、もともと得意な人は話が違うだろうけれど、それはそれ。得意ではない人に「こんな楽しみもあるよ」と思わせる状況からは程遠いのではないか、といわざるを得ない。それは突き詰めると、指導方針・指導内容による部分が大きいのだろうけど。

そういえば。水泳の授業が普遍的に行われるようになったきっかけが紫雲丸事故だ、という話がある。確かに海難事故は、泳げるかどうかが生死に関わるシチュエーションではある。しかし、それならなおのこと、「泳げない人を引っ張り上げられる指導」が適切になされているかどうかが問われなければならないのでは。

正直いって、「スポーツ好きを増やす」前に「スポーツ嫌いができる原因」を考えた方がいいと思うのだけど。そっちからどうにかする方が、結果的に早道なんじゃなかろうか。


もちろん、これは個人的経験に立脚して書いている話なので、全国、どこに行っても普遍的に通用する話だとはいわない。

しかし一方で、「スポーツ嫌い」が少なからず存在する現実があるからこそ、スポーツ庁が「スポーツ好きを増やしたい」といいだしたはず。スポーツ好きが多数派ならば、わざわざそんなことをいう必要性はないのだから。

そして、学校でスポーツ嫌いが染みついてしまった人が、その後もずっと、ことあるごとに怨念を口にすることになってしまう。そういう状況が、回り回って五輪開催に対する理解や是非論にも影響していやしないだろうか。

今はある意味「非常時」だから、「こんなときに五輪を開催してる場合か ?」という主張も、当然ながらあるはず。でも、それ以前の問題として「スポーツ イベントに対する理解や支持」に、個人レベルでの好悪が影響することはあり得るでしょ ?

1980 年のモスクワ五輪ボイコットで、出番を失ったアスリートが辛そうだった状況を (報道を通じてだけど) 見ているから、簡単に「中止だ中止」とはいいたくない。

でも、だからといって「五輪のために国民は諸手を挙げて協力・支持すべし」といわれれば、それもまた、違うだろうとはいいたい。そんな考えで来られたら、却って反発されるだけである。もしかすると、学校だけじゃなくて業界の体質問題でもあるのか。

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