Opinion : 戦術の問題と、もっと上のレイヤーの問題 (2022/1/10)
 

またぞろ、一部の県で「まん防」が発令されてしまった。ところで COVID-19 は滅ぼされなければならない。

まん防にしろ緊急事態宣言にしろ、COVID-19 感染者が増えると発令される。もちろん、「なんとかしろ」という声も、「なんとかしなければならない」という意識もあるわけで、必然性は分かる。

感染者が増えているのに何の措置も講じなければ、「国は何をやっているんだ !」「国の怠慢だ !」とわめく人が続発するのは、火を見るよりも明らかなこと。

ところが、新聞にしろテレビにしろ通信社にしろ、まん防やら緊急事態宣言やらが発令されると、今度は「○○発令で観光地の客足が鈍った」とか「人出が減ってため息をつく人が」みたいなニュースを流し始める。そりゃ、人の動きを抑制する措置を講じれば、人手や客足が減るのは当然の展開で、なにをいっているのかと。

では、人の動きを抑制しなければどうなるか。先にも書いたように、「国は何をやっているんだ !」「対策を講じろ !」となるのは間違いない。それに、発令後も人出が減らなかったら、今度は「発令の効果なく」とかなんとかやるんでしょ。

つまり、どっちに転んでも文句をいう図式がある。それでは、国にしろ自治体にしろ、「それじゃあ、どうしろというんだ」と頭を抱えることになってしまう。根っこのところにあるのはおそらく、「よくない事探し」をするマインド セット。という話は、以前にもどこかで書いたような気がする。

社会部マインドにしろ政治部マインドにしろ、それが必要となる場面もあるのは分かる。ただ、あまりにも一貫性がないというか、どっちに転んでも文句をいうとなると、さすがに「なんか違うんじゃないの ?」と思ってしまう。

中には「そもそも報道姿勢に信条なんて存在しない」と開き直る論調も存在するし、なるほどそういわれれば、実際に行われていることについても「それならそういうことになるな」となってしまう。

それで当座の数字は出るし、アガリにもつながるだろうけれど。しかし、そもそもそういう一貫性のなさが、いわゆる「マスコミ批判」の一因になっているのではないの ?


そこで、この問題を自分なりに考えてみると。

「よくない事探し」とか「権力の監視」とかいうのは、戦術レベルの問題なんだと思う。その場、その場の状況に合わせて、「よくない事探し」をしてその原因を叩くとか、「権力の監視」という大義名分の下で首を取りに行くとか。どれも、個々の局面において、ひとつの勝利 (と考えられているもの) を手にするための戦術。

ところが、これを戦術レベルよりも上のレイヤーで見ると、どうなるんだろう ? 信条とか一貫性とかいうのは、その、戦術レベルよりも上のレイヤーに属する話なんじゃないか ?

戦術とはあくまで、個別の戦闘に勝つためのものといえる。しかし実際には、個別の戦闘に勝つだけでなく、その勝利をうまいこと連関させて、戦争の勝利につなげていかないと話が終わらない。ビジネスあるいは個人の人生であれば、国家が行う戦争とはまた別のゴールがあるわけだけれど。

それを実現するには、戦術より上のレイヤーで「最終的に目指すものは何か」「それを実現するために、どういう戦い方をしていけばよいか」「個別の勝利をどうやって最終目標につなげて、目指すべき状況を作り出すか」という考えが必要になるはず。最近、しつこくいっている「ゲームのルール」も、それを構成する要素のひとつ。

そういう要素を欠いた状態で、その場その場の状況に合わせて「祭り」のように報道を展開するから、結果として一貫性を欠いたり、どっちに転んでも叩いて満足して終わってしまったり、ということになるんじゃないか。なんてことを考えてみた。


実のところ、こういう場当たり的なことばかり続けていると、自滅する原因を作ると思うのだけれど。

しかも、自分らが「レギュラー悪役」に指定した相手は何をやっても執拗に叩く一方で、「レギュラー善人」に指定した相手は何をやっても叩かないか、批判的になっても腰がひける。これはまずい。

Contents
HOME
Works
Diary
Defence News
Opinion
About

| 記事一覧に戻る | HOME に戻る |