Opinion : 続・いつまでも、あると思うな、いまあるもの (2022/6/6)
 

なんとなく成り行きで、前回の続きみたいなことを書いてみたい。

Twitter で定期的に流れてくるネタで「国鉄分割民営化の際にいわれていた話とは裏腹に、寝台特急がなくなって云々」というのがある。しかし実のところ、これもまた「いまあるものはずっとある」という思い込みの産物なのではないか。と思ったのが、続きを書こうと思い立ったきっかけ。

だいたい国鉄の歴史をたどってみただけでも、消えたり変わったりしたものはゴマンとある。分かりやすいところだと、東海道新幹線ができたときに、一夜にして東海道本線の昼行特急がごっそりなくなった件が挙げられるし、何かとネタにされる夜行にしたって、運行系統や車輌の変化はしばしば起きている。

「いまあるものは、今後も未来永劫に渡って維持されなければならない」なんていいだしたら、身動きがとれなくなってしまうし、却って改善の妨げにもなる。


趣味的見地からすると、「大人になったら乗ろうと楽しみにしていたのに、大人になったらなくなっていた」という主張を見かけた記憶がある。若い人からすればそういうことになってしまうわけで、それは情の部分では同情できる。しかしである。

これは実際のところ、いつの世代にも存在する話。たまたま自分は夜行列車をそこそこ利用した経験があるし、小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」もしかり。ナシ 20 や 35 や 168 や 168-3000 でメシを食ったこともあって、これらは若い人から見たら「経験できて羨ましい」と映るかも知れない。(しかし 36 でメシを食った記憶はない)

ところが。自分の世代からさらに遡ると、今度は「クロ 151 がただのグリーン車になっていた」あるいは「石炭レンジで料理した食事を食堂車で食う機会がなかった」とかなんとか、似たようなネタはなんぼでも引っ張り出せる。昔はあったものが、時代が下ったら消えていて経験し損なったという話は、どこの分野にでもある。それをいいだしたら際限がなくなる。

なんにしても、鉄道趣味界の「昔と同じでないと許さん」度の高さは他の分野と比べて突出してる。個人の好みの問題とはいえ、ちと後ろ向きすぎやしないか。「昔の家電は壊れない」にも通じる話だけれど、懐古趣味の行き過ぎが目立ちやしませんかと。「今の○○という問題は国鉄のままだったら…」という言説もあり、もはや「国鉄教」との雰囲気も。

以前にも書いたような気がするけれど、そもそも長距離夜行というのは「昼行では時間がかかりすぎるから、寝ている間に移動できれば合理的」という一面がある。だから理想的なのは「最終の飛行機が出た後に発地を出発して、始発の飛行機が到着する前に着地に着く」となる。

しかし、昔のブルー トレイン全盛期の時刻表を見ればお分かりの通り、実際には「始発の飛行機が到着する前」どころか、終着駅に着くのがお昼近くなんていう列車がいくつもあった。他に選択肢がない時代ならいざ知らず、他の選択肢があるのに、そんな手間のかかる移動をする人がどれだけいるのかと。

「寝ている間に移動できれば合理的」のメリットをもっとも享受できるのは出張族であって、実際、長距離夜行の全盛期に利用のかなりを占めたのは出張族。他の選択肢が増えて「飛行機や新幹線で前乗りしてビジホ宿泊」が普通になれば、需要がひとかたまり消えてしまう。

といって「旅情を求める好き者の旅人」だけで維持できるとも思えない。移動を快適に楽しめるだけの設備を整えようとすれば、相応のコストはかかるし、しかも一人あたりのスペースを拡げれば定員が減る。そうなると、コストに見合った revenue は出るのかという話になってしまう。

するとありそうなのは「採算性だけの問題ではない」という反論だけれど、採算がとれないモノを維持し続けるウルトラ C があったら教えて欲しい。国営だろうが公共企業体だろうが民間企業だろうが関係なく。

え、新幹線が伸びたのが悪い ? もしも新幹線が 1980 年代あたりの水準で止まっていたら、いまごろ東京-広島間のシェアは航空が八割ぐらい獲ってたんじゃないの。いや、羽田の発着枠にもよるけれど。


ただし、懐古趣味だけでなく、もうひとつのパターンもあるようだ。それは「自民党あるいは国鉄分割民営化政策の悪口をいいたいがために、運行系統の分断や夜光列車の廃止などを体のいいダシに使っている」パターン。

こうなるともう、理屈で説得できる相手ではないので、放置しておくしかなさそう。なまじ反論しに行けば、「当局の回し者」としてレッテル貼りしてキレられるのがオチだろうし。

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