Opinion : 公共交通機関の生き残りについて、ちょっと考えてみた(2) (2022/8/8)
 

JR 東日本や JR 西日本が収支状況の公表に踏み切ったことで、いきなり騒々しくなったローカル線維持の問題は、煎じ詰めれば「移動の自由」の問題。

交通機関の本来の存在価値とは「誰にでもあまねく移動の自由を提供すること」にあるはず。まずは、それがどれだけ実現できているか、今の公共交通機関は実際の人の流れに沿っているのか、需要に見合った輸送力を持っているのか。そういう話から始めるのが先なんじゃないかと。

JR 東海に取材に伺った席で出てきた話で、「在来線の需要は人口動態に依存する」というのがあって「なるほど」と納得してしまった記憶がある。

たとえばの話。主たる需要地である学校や病院が、駅から離れた場所にできたり移転したりして、その一方で「レールを残せ」といわれたら。そんなことになっても、それはもう街作りのグランドデザインが欠如しているとしかいいようがない。


国防の世界ではちょいちょい「何をどう護るかよりも先にモノを買いたがる」という症候群があるけれど、ローカル線問題も、それと似たところがある。「何をどこからどこまで運ぶかという話よりも先に、輸送手段のひとつであるレールの維持に執着する」。

インフラの建設にも維持管理にも運行にも、相応の人手と経費がかかる鉄道という輸送モード。需要がないのに無理矢理維持しても、カネばかり食うブラックホールになってしまう。

もちろん、えち鉄が発足するきっかけになった「負の社会実験」みたいに、道路交通では対処できない需要があることが明らかになったケースなら、話は別。需要があると立証しているのだから。需要があるところなら、こんな効率のいいものはない。東海道新幹線を見て。

大事なことなので繰り返すと。まずモードの話は措いておいて、人口動態と流動の現実に適した交通網はいかにあるべきか、という話から始めてもバチは当たらない。個々の交通モードは「手段」であって、目的は「移動の自由をもたらすこと」なのだから。

そして、明治や大正の時代に造られた、スピードが出ない線形、災害に弱い構造物、それで令和の時代の輸送に対応できるんですか。実用性のある「移動の自由」は実現できるんですかと。

正直な話、「本線」クラスだって同じ問題はある。と、キロ 182 の乗り納めをしようと思って旭川から網走まで「大雪」に乗ったときに思った。正直、都市間輸送の手段として見た場合、競争力が…

といっても現実問題として、いまある線路をすべて引っぱがして理想的な経路に敷き直す、なんてことは不可能に近い。それならせめてもの次善の策として、ボトルネック区間や災害多発区間だけでも、作り直せないものかと思うことはある。山形新幹線 (奥羽本線) や秋田新幹線 (田沢湖線) で、県境山越え区間を新しいトンネルで抜く話が出ているのは、その一例かなと。


もっとも、この問題になると、報道する側にも問題がある。「ローカル線の郷愁」みたいなことばかりいっていて、令和の実用交通機関としてどうなのよという視点が欠落してはいないか。

郷愁という観点だけなら、このクソ暑い真夏に暖房車でも許されるかも知れないけれど、実用品として見たらどうなのか。本当に重視するべき「地元の普段使いの利用者」に相手にされなくなるのと違うか。

「廃止反対」をいう自治体トップなどの発言ロジックにしても、ぶっちゃけ 40 年前から大して進化していない。「うちの地域を地図から消さないための威信材として、国が面倒をみてくれなければ許さん」「国からカネをどれだけ引っ張ってくるかで首長の力量が問われるんだから」という話なら、また違う次元の議論になってしまうけれど。

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