Opinion : エビデンスで殴られる人々 (2023/11/6)
 

「専門知で殴らないで」の次は「エビデンスで殴らないで」ときたか。

件の朝日新聞の記事、すでにさんざん殴られているようだけれども。ただ、こういうことを大真面目に言い出すこと自体、過去に「素人のお気持ち」をタテにして、いろいろな人や組織を殴ってきたんだろうな、と自白しているも同然じゃなかろうか。とは思った。

前にも同じことを書いたような気がするけれども。これもまた、過去にはうまくいってきた、通用してきた手法が効かなくなってきている現実に直面していて、それに抗おうとして墓穴を掘った一例ということじゃないだろうか。

野党の業界にもいえることだけれども。状況が変わったのなら、それに合わせて打ち手を変えなければ勝てない。「過去にこうやってうまくいってきたのだから」といって、それにしがみついていたのでは、勝てるはずのものも勝てなくなる。

でも、新聞記者の業界では「自分達の勝利の公式が通用しないのは、勝利の公式を機能不全に陥らせている現実の方がおかしい」という考え方があるんだろうか。そんな寝言をいっているのだとすれば、お話にならない。ますます相手にされなくなるだけだし、それは社会全体の利益にもならない。


ただ、現実問題として、常にエビデンス付きにできるかというと、そうもいかない。物書き稼業や記者の仕事について回る「情報源の秘匿」という問題がある。いちいちネタ元を露見させてしまったら、ネタ元の立場に関わる。

実際、自分が書いたものでも、そういう事例がある。業界筋から聞き込んだ話があっても、「いつ、どこでどこの誰から聞いた」とは公にできない種類のやつ。そういうのは「〜な話も仄聞する」とかなんとか書くしかない。

ただ、エビデンスなしでは話が進まない分野もある。その筆頭が科学技術や医学など、サイエンティフィックに物事を考えないといけないやつ。そこでお気持ちを優先したら、ロクなことにならない。まともに機能するはずの話が、まともに機能しなくなる。

具体例を考え始めると際限がないので、これぐらいにしておくけれども。「定量的なデータ」や「実験・試験に基づく検証結果」などのエビデンスが必須の分野と、そうでない分野の区別をつけるのが重要なのかなと。そこで「エビデンス必須」の分野を「お気持ち」で押し切ろうとすれば、それは批判されてもしゃあない。

「お気持ち」の背景として「直感」や「感覚」が持ち出されることもある。そりゃあ確かに、感覚の部分で「ピンと来る」ことはある。しかし、それが正鵠を射たものになるかどうかは、かなりの部分、エビデンスというか、データを地道に積み上げてきているかどうかに左右されるんじゃなかろうか。

つまり、何のベースもない状態でいきなり「ピンと来た」からといって、それが当たるんですかという話。


ついでに嫌味みたいなことを書けば、エビデンスを出したからといってみんなが納得するとは限らない。

例の「安全 vs 安心」問題がそれで、定量的なデータという形のエビデンスを示せば「安全」は証明される。でも、「安心」はお気持ちの問題だから、どんなにデータを示しても「安心できない」とひとこというだけで、すべてが振り出しに戻ってしまう。

「そういう問題がある」と理解する必要はあるけれども、お気持ちだけで「安心できない」といっている人を納得させるのは至難なのも事実。だって、どんなにエビデンスを示してもそれで納得するつもりはないし、挙句「エビデンスで殴らないで」などと言い出す。それをどうやって納得させろと。

それに、同じ「安心できない」という字面でも、「感覚的に安心できない」と「願望やイデオロギーの観点から、安心できないといっている」の二種類がある。前者の典型例は、飛行機を指して「あんな金属の塊が飛ぶなんて信じられない」みたいなやつ。後者は、まあ、いうまでもないかなと。

納得してもらおうと努める側は、そこのところの違いを見極めるしかないんじゃなかろうか。

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