Opinion : 性急さと極論と分断について考えてみた (2025/10/20)
 

政治がらみの策謀として認知戦を仕掛けて、その手法のひとつとして相手国内の分断を煽る。そんな話がここ何年か、問題になっている。実際のところ、その種の話はもっと前からあったのだろうけれど、昨今の SNS 社会では、分断を仕掛けるのが容易になった感がある。

もっとも、ネットサービス業界が (なぜか) 大好きな「おすすめ」機能なんてもんが出てくる前、30 年以上前のパソ通の時代でも、エコーチェンバーというものは存在した。同じような方向性を持つ者同士がひとつところに集まり、毎日のように同じような方向性のやりとりばかりしていれば、それはもう「染まって」しまって当然。

現代はそれがさらに、システマティックに行われる仕組みができてしまっている… そういう話じゃないかと。そのことの最大の弊害は、「中間」から「両端」に人々を押しやりがちなこと。


なんてことを書いてみたきっかけは、大阪万博。

個人的には、他のことに時間とリソースをつぎ込んでいたせいもあって、スルーを決め込んでいたけれど、自分のまわりには何人も、万博に行ったよという人がいる。それは個人の楽しみでやっていることであるし、横合いから口を出す筋合いじゃない。行きたいと思ったから行って、楽しんできました。よかったよかった。

ところが世の中、そう考える人ばかりでもないようで。中には、赤の他人が「万博に行ってきました」と投稿したところに噛みつきに行って、罵声を浴びせるようなことをしていた事例があるらしい。暇人がいるものである。自分が反対しているイベントで楽しんできた、という話を見て「敵認定」してしまったのだろうけれど。

逆に、何度も通い詰めたガチ勢はガチ勢で、これまたエコーチェンバーを構成していた感がなきにしもあらず。

正直、その「万博に行った人と行ってない人の叩き合い」の切れっ端が目に入ってくるだけでも、なんか疲れてしまって。

自分が行って楽しんできたイベントのことを、悪しざまにいわれるとむかっ腹が立つ。それは分かるけれども、それをいちいち叩き返したところで、モグラ叩きが続くだけで不毛。そういうことを繰り返してたら、自分のメンタルまでやられてしまうんじゃないんですかねと。

もっとも、ことに「○○反対」に染まってしまった人にありがちな傾向で、「自分と違う見解、とりわけ対立する見解が視界に入ること自体が許せない」というのがある。活動家の業界なんか昔からこれよ。視界クレンジング。

だから、対立見解については発言抑止も当然、とかいうことを平然として言う。一言でいえばスルー力がない。そっとミュートしてスルーするならともかく、わざわざこちらから出掛けていって「叩き潰しに行く」となると、際限のない叩き合いが起きるだけなんだけどな。

そういう心情が、実は分断・対立を煽る側にとっては「使いでがある」ってことになるんだけど、たぶん当人は分かっていない。際限のない叩き合いに首を突っ込んだ人はえてして、「中間」に留まることを良しとしないで、いちぜろ思考で端まで振り切れることを求めがちだから。


世の中、さまざまな立場でさまざまな考えを持つ人がいるのだから、それを動かそうとすれば、それなりの時間はかかる。物書き業をやっていると痛感するけれども、自分が何か主張して、実際にその方向に物事が動いたなと感じられるまでには、時間がかかったり、強力なトリガーが必要だったりするもの。

だから、何か一撃でコロッと激変するなんてことは、まぁない。同じことを地道に言い続けて、書き続けて、それでようやく山が動き始めればラッキー。

なんだけれども、実際には「まなじりを吊り上げて拳を振り上げて大声を上げれば、みんな賛同して世の中が自分の望む方向に一変する」と信じ込んでいる人がいるように思える。実際にはそうはならないから、ますます声がでかくなって極端に振れて、ますます相手にされなくなる。するとますます (以下無限ループ)

いくら、ドッグイヤーの業界をプラットフォームにしたところで、その向こうにいるのは以前と変わらぬ生身の人間。その世の中を動かすのまで、ドッグイヤーで進むわけじゃないんだからね ?

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