Opinion : 自衛のための自己責任 (2025/11/3)
|
1 月にコスフォードに行ったとき。ロンドンの Euston 駅から Avanti West Coast の Class 390 に乗って、途中で乗り換える経路をとった。ところが、その Euston 駅に行ってみると、乗るつもりの列車は発車標に現れているものの、「番線未定」。
乗車番線の情報が現れたのは、発車時刻の 15 分前ぐらい。大きな空港と違うから、大移動を求められるわけではないものの、土壇場までホームがわからないと身動きがとれない。(だから、発車案内を見やすいコンコースに多数の人が屯していた)
日本だったら、定期運行の列車はみんな最初から発着番線は決まっているのが通例であるし、だからこそ、それを時刻表に書くこともできる。番線変更がかかるのは、ダイヤが乱れたときぐらい。
ところがイギリスでもスウェーデンでも、都市部の主要ターミナル駅だと、土壇場まで発着番線が決まらなかったり、最初に告知されてた発着番線が変わったり、という経験を何度もした。もちろん、地方都市の小さな駅であれば、それほどのことにならないけれども。あと、空港でも、ギリギリまでゲートの情報が分からないことがあった。
となると、最初に「ここに行ってればいいよね」といってノンビリ構えているわけにはいかない。案内に注意して、最新の情報をチェックしないと、乗り遅れが発生して旅程が崩壊する。
これまで日本だと、そういう場面では放送、あるいは係員による案内が懇切丁寧に行われるというのがコンセンサスであったように思う。ただ、それを実現できるのは、十分なリソースと、しかるべき道具立てが整っている場合。
係員に案内させようとしても、その係員の頭数を確保できなければ、案内が行き届かなくなる。イレギュラー対応みたいな話になると経験がモノをいいそうだけれど、経験を積んだ百戦錬磨の係員が足りないと、対応がグダグダになるかも知れない。
それに対して、不平不満をいいたくなる気持ちはわからんでもないけれど、「今あるものはずっとある」といいきれないのもまた事実。これまで当たり前のように存在していたものが、人手不足などの事情からあっさり消えてしまったという類の話、あちこちにある。
一夜にしてパッと意識を切り替えるのは難しいにしても、「親切に案内してもらえるのが前提」という考え方は捨てないといけないフェーズに来ている… のかも知れない。それは事業者サイドの不行き届きを弁護するという意味ではなくて、自衛のためという意味で。自分の旅程は自分で護らないと。
ストックホルム中央駅で、乗る予定の列車の番線を確認してからお菓子をつまみつつ休憩して、発車時刻が近付いたからホームに出ようか… と思ったら番線変更がかかっていたことがある。ホームに出る前に、最新の発車案内を確認したから無事で済んだけれども、最初の情報をそのまま信じていたらヤバかった。
|
でも、ヤバいことになったとしても、欧州式だと「ちゃんと確認しなかったアンタが悪い」で終わりだろうと思われる。
|
ただ、たとえば運輸業界の場合、「だったらスマホで通知を送ればいーじゃん」と行くかどうか。誰も彼もがスマホを持っているとは限らない。誰にでも対応できること、という前提で考えると、空港だったら出発案内、駅だったら発車標をちゃんとチェックしてね、ぐらいが落としどころか。
空港で、ラウンジに Departure の案内ディスプレイは必ずあるから、それをときどきチェックして、ゲートの変更がかかっていないかどうか確認するのはお約束になっている。海外で、ゲート変更がかかった経験は一度しかないけれども。
番線やゲートに限らず、運行情報・運航情報の類も、自分で確認することが前提… という時代が来るやも知れず。これぞ「自己責任」。その代わり、案内の設置や内容の更新はきちんとやってね、となるのは当然なれど。
そういえば、スーパーのセルフレジ化に不平をいう人の話がときどき流れてくるけれども、これも「人的な親切や面倒見を頼りにできないフェーズに来ている」という意味では、同じ種類の話になるのかも知れない。
個人的には、別にセルフでもいーじゃんと思っているけれども。ただ、レイアウトが悪いせいで誤読み取りが続発するサミットのセルフレジ、あれはだめだ。
なんにしても、世の中「自分のことは自分でちゃんと面倒をみるように」という方向に向かっているのは確かであるように思う。人間、当たり前のように手にしていたものが取り上げられるとなれば抵抗するのは自然なことで、過渡期にフリクションが生じるのは避けがたいけれども。
|